南海トラフ地震警戒情報

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今も続く、阪神・淡路大災害の人権補償や二重ローンの問題

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戦後に大きく変わった法制度


日本はアジア・太平洋戦争前後に数多くの大きな自然災害に見舞われました。


特に戦時中には地震や津波、台風など、犠牲者が1000人を超える大災害が毎年のように起きました。



当時は地震の活動期にありましたが、戦時中は国土が荒廃し、防災対策を二の次にしていたこともあり、ひとたび地震や台風に襲われると被害が甚大になったのです。


敗戦後、1946年11月3日公布の「日本国憲法」に合わせて、災害法も大きく変わりました。



まず、昭和南海地震をきっかけにできたのが「災害救助法」です。


従来の罹災救助基金法は、各県に被災者救助を任せていましたが、昭和南海地震の被害が広域にわたったこともあって、県による格差が非常に目立ちました。


たとえば、1人1日あたりの炊き出し費用は、三重県では戦時中の公定価格を基準に45銭以内だったのに対し、香川県では戦後のインフレを考慮して5円以内と10倍以上もことなっていました。


そこで、災害救助の種類と内容を平準化して安定させることにしたのです。



また、1948年に3769名の犠牲者を出した福井地震は都市直下の地震であり、建物の全壊率が60%を超える被害だったため、建物の安全性が見直されることになりました。


これを契機に制定されたのが、皆さんにも馴染みのある「建築基準法」です。



台風を契機に成立した災害対策基本法


1959年9月26日の伊勢湾台風は、犠牲者5098人、負傷者3万8921人という凄まじい人的被害をもたらしました。


また、高潮による被害で全半壊・流失した家屋は約15万棟に及びました。


この伊勢湾台風が、戦後の防災対策の転換点となる「災害対策基本法」の成立の契機となりました。



災害対策基本法の眼目は、戦後約10年間に100を超える災害特例法が制定されるなど、各分野で乱立していた災害対策を一本化しようとしたところにあります。


さらに、災害復旧事業に対する国の補助金が災害ごとに場当たり的に定められ安定性を欠いていたので、国庫補助率等を標準化し恒久化するため、「激甚法」が制定されました。



新潟地震をきっかけに実現した地震保険


高度成長期は、大災害の少ない災害平穏期と重なります。


その間に、豪雪や噴火に対応するための法律が定められ、地震に備えるための法律の整備も進められました。



豪雪は頻繁に被害をもたらしていましたが、1961年に豪雪被害が社会問題となり、雪害防止と地域振興のために「豪雪地帯対策特別措置法」が制定されました。


また、桜島は1960年代から火山活動が活発になり、1972年には激しい噴火が起き、降灰などによって住民の生活に大きな被害が生じたため、1973年に「活動火山対策特別措置法」が制定されました。



1964年にはM7.5の新潟地震が発生しました。


津波や液状化が起き、さらには火災も発生し、新潟市内にも大きな被害が生じました。


当時、個人の住宅に対する手当はなく、また、火災保険でもカバーされなかったため「地震保険に関する法律」が制定され、地震保険が実現することになりました。



1967年は犠牲者138人に及ぶ大災害、羽越豪雨水害があり、被災者や遺族など個人に対する補償を行うべきという論調が強まり、「災害弔慰金の支給等に関する法律」が制定されました。



1978年には宮城県沖地震が発生し、多くの家屋が倒壊し、ブロック塀の下敷きになって亡くなるという事故も起きました。


この事故は民事訴訟に発展し、「震度5の地震」が不可抗力といえるかどうかが裁判で争われる事態となり、建物の耐震性を確保するべきだとの意見が高まり、1981年に建築基準法が改正され、明確な耐震基準が盛り込まれることになりました。


その後、1991年の雲仙普賢岳噴火災害、1993年の奥尻島津波災害、そして1995年の阪神・淡路大災害と、自然災害が立て続けに続く時期に入りました。



阪神・淡路大災害で浮き彫りとなった住まいの問題


阪神・淡路大災害の特徴は、直下地震が都市部を襲い、激しい揺れによって多くの建物被害が生じたという点にあります。


6434人の犠牲者のうち、約8割が建物被害によるものであり、建物の全半壊・全半焼は約25万棟にも及びました。



震災後、約2ヶ月の間に16の緊急立法が措置されました。


阪神・淡路大災害では住まいについて大きく3つの問題が浮き彫りになりました。


1つ目は借地借家問題、2つ目は住宅政策の問題、3つ目は住宅再建支援の問題です。


兵庫県弁護士会に寄せられた相談の6割超が借地、借家に関するもので、人口が密集した土地が不足した都市部を襲った災害の特徴を示していました。



「借家が全壊したが敷金は直ちに返してもらえるのか?」


「家主が補修をしてくれない」


「貸家が全壊したのに、借主が出て行ってくれない」


「借地人に、借地権を買い取ってくれと言われている」



借主も貸主も、ともに被災者であるという切実な状況は、借主を手厚く保護する平時の借地借家法制の限界を露わにしたのです。


借家人救済のため、戦災復興の特別法である「罹災都市借地借家臨時処理法」が適用されましたが、この法律をめぐる解釈問題も噴出し、借地借家の紛争は混迷を極めました。


また、阪神・淡路大災害では、172棟のマンションが大規模に被災し、その法的処理も困難を極めていました。



住まいに対する人権の保障問題


さらに、被災後の住宅政策は、被災者の人権をないがしろにしていました。


人権とは、人が人として生きるための条件を規定したもので、被災地の住まいにはそれが決定的に欠けていたのです。



「避難先を転々としているうちに、知り合いもいなくなり、家から外に出ることがなくなった」



このような声が多くあり、高齢者の孤独、働き世代のアルコール中毒、劣悪な住環境、住み慣れた町からの別離など、これまで数多くの問題点が指摘されてきました。


仮設住宅、復興住宅で誰にも気付かれずに亡くなる人は震災後16年間で950人にのぼります。



さらにその後、震災後に自治体が借り上げた民間公営住宅の供用期間が迫り、神戸市などは転居のあっせんに動き出しました。


ずっとここで住み続けられると思っていた期待が裏切られ、またも住み慣れた家から追い立てられる高齢者が多くでたのです。



個人補償を拒む国の考え


当時の村山富市首相は、1995年2月24日の衆議院本会議で「自然災害により個人が被害を受けた場合には自助努力による回復が原則となっております」と述べました。


被災地では家を失った被災者が救いの手を国に求め、公的補償の実現を望む声が拡がりつつありました。


しかし、国は、自然災害による損害は国に責任がなく、あくまでも個人の責任で対応すべきという見解で凝り固まっていたのです。



私有財産の形成に公費を投じることはまかりならず、住宅再建は自助努力によるべきとの国の主張が厚い壁となっていました。


後日、「被災者生活再建支援法」が成立して一応の救済がなされましたが、実は、国の考えは何ら変わっていません。


また、既存のローンが残ったまま住宅が全壊し、住宅を再建するために組んだ新たなローンが上乗せされる二重ローン問題も解決の道筋さえつけられず、現在に至っているのです。



阪神・淡路大災害以降は、災害が立て続いたものの、災害に関する法律が大幅に見直されることはありませんでした。


災害ごとに特別立法が行われ、法体系が複雑になるのを政府が避けようとしたからです。


たとえば、2004年の新潟県中越地震の際に県が特別立法の制定を求めたのに対し、政府は従来の法の運用の見直しと財政支援を約束することで立法要求をこらえて欲しいと働きかけました。


措置された法律がないわけではありませんが、従来の法制度の空隙を埋めるもの、不備を正すものにとどまっています。



1999年9月には茨城県東海村でJCO臨界事故が起き、2人が亡くなる惨事となり、日本における初めての重大な原子力事故となりました。


これを受けて、同年中に「原子力災害対策特別措置法」が制定されました。



また、1999年6月は梅雨前線にともなう集中豪雨により、広島県などで大きな土砂災害が起きました。


土砂災害の危険の周知、警戒体制なとを見直すために、翌年「土砂災害警戒区域等における土砂災害防止対策の推進に関する法律」が制定されました。



2000年にも東海豪雨があり、その教訓から水防法を一部改正し、さらに「特定都市河川浸水被害対策法」が制定されました。



阪神・淡路大災害で新設された被災者生活再建支援法は、新潟県中越地震で使い勝手の悪さが指摘され、2007年に起きた能登半島地震や新潟県中越沖地震でも、被災地のニーズに適していないと厳しく批判され、同年の11月に大きく改正されました。


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