南海トラフ地震警戒情報

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震災後に問題となる災害に関する法律問題!江戸時代から続く救済制度!

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人を救う災害法


大地震や津波、噴火などの災害で被災した人は、その後必ず大きな問題を抱えることになります。


例えば「家族が津波で流されたし、家も流されました。家族は無職だったし保険にも入っていないから何も手当は出ないのだろう。」という悩みを抱えている人が震災後に実際にいらっしゃいました。


被災者たちの大きな問題になるのは、いわば法律問題です。


この方の場合、職の有無にかかわらず遺族には弔慰金が支払われ、流された自宅に関しても支援金が支払われました。


たとえば生活が苦しくてどうしようもないと申請すれば、生活保護が受けられますが、そのことを知らなければ「生活ができない、どうしよう」と一人で悩み、路上生活にまで転落していったり、犯罪を犯してしまったりします。


それと同じように、家も家族も財産も失ってこれからどうすればいいんだろう。と一人で悩んでいても、そのまま転落していくだけの可能性が高いです。


国は申請しなければ動いてくれない組織だと思ってください。


身体は無事だったが、通帳も印鑑も契約書類も土地の権利証もなにもかもなくなったという人も多くいました。


災害に関する法律というのは、そんな人のためにも必要な知識だと言えます。



現在の法律は決して完全とは言えないかもしれません。


しかし災害が起こる度に、災害復興の過程でその教訓を活かして法制度が改善されていっています。


そして、その法によって人々が救われる場面も決して少なくはありません。


大災害によって何もかも失い、絶望のどん底に突き落とされたときにこそ、災害法は希望の灯となるのです。



古代の法制度


昔から現在まで、災害による被害を最小限に抑えること、人々を救済することは政府にとって重大な使命でした。


最も古い災害に関する制度は、大化の改新にまで遡ります。


中国の制度にならって、被災者や生活に困っている人々に給付をするための穀物を徴収または寄付を得て備蓄する「義倉」という制度が創設されました。


たとえると、国民が生活に困らないように食べ物を国で備蓄しておく。ということです。



その後、律令制度が発達しても、災害に関する法制度が整備された形跡はほとんど見あたりません。


災害対策は行われてきましたし、時代を追うごとに土木事業の技術・規模の水準は高くなっていきました。


しかし、堤防などの治水を中心とする防災事業や、災害後の修理、土砂の除去などの復旧事業、あるいは新田の開拓といった復興事業など、あくまで個々の災害ごとの「事業」の取り組みであって、教訓を一般的に制度化する法の整備には至りませんでした。



江戸時代にできた救済制度


江戸時代の記録を見ると、救済制度が発展したことがわかります。


たとえば、日本を襲った大飢饉の際には、幕府が米の支給を行っています。


また、浅間山天明噴火の際には、土運びなどの公共工事を実施して、被災して職を失った労働者に賃金を支給しました。


安政東海地震でも、下田が津波に襲われましたがその日の内に現代の避難所や仮設住宅にあたる「御救小屋」が設置され、粥の炊き出しが行われました。


さらに翌日には、被災者を調査し、親類への避難と、避難先のない者への避難場所の手当てもなされました。


1ヶ月以内には、流出した家一軒につき金三分(約60000円)、死亡者へ各一貫文(約12000円)が支給されました。



江戸時代には、火事、地震、水害、噴火などの災害が相次ぎました。


そのため数々の災害の経験を蓄積し、貧困層を中心とする庶民に食料や避難所などの応急的な救済措置を行い、さらに、米やお金を支給して生活の再建や安定を図る流れを制度化させていきました。


また、大規模災害では生活困窮者を助けるための公共事業による仕事の創出と復興事業を抱き合わせた長期的な救済措置も制度化していきました。



江戸時代の災害に対する制度の中で、特に注目したいのが「七分金積立制度」です。


地主たちに町費の節減分の7割を拠出させ、幕府もその3分の1程度の補助金を拠出し、災害時の準備金として積立てを行っていたのです。


これにより、災害時に安定した被災者対策を講じることができたとされます。


1868年には、その積立金の額は現在の貨幣価値にすると1000億円以上にも達していました。


しかし、近代化を目指す明治政府はこれらを庁舎の建設費などで使い切ってしまいました。


近代的開発政策が長年の積み重ねをゼロにしてしまったのです。



繰り返される責任主体の迷走


明治政府は国家による備蓄を取り止め、その代わりに1869年、各藩に対して人口に応じた備蓄をするように令を出しました。


つまり現代に当てはめると、大阪府では大阪府の人口分の食料やお金を備蓄しておくように、と国が命令を出したということになります。


そして、1871年、廃藩置県と同日に制定された「太政官達県治条例中窮民一時救助規制」により、各県が行う災害時における米の配給基準、建築費の貸与基準、農具や種もみの貸与基準などを定めました。



しかし、明治政府が安定し、近代化と富国強兵を推し進め、中央集権体制を整えるなかで災害対策も中央政府が行う形に切り替えられました。


政府が財源を拠出し、災害時の食料供与、仮設住宅の補助金、農具や種もみ代の拠出などの救助を行うことにしたのです。



政府が責任主体となって推移していた災害対応ですが、1891年の濃尾地震や1896年の三陸地震津波などの大災害により、蓄えていたお金が底をついてしまいました。


そのため、1899年から再び府県ごとに基金を設置することにしました。


しかし、地方ごとに財政力や考え方が違うことから、救助活動がバラバラになるという問題が生じました。


当時の災害法制の未熟さが、こうした責任主体をめぐる迷走にあらわれているのです。


この頃から比べるとかなり完成された法制度のように感じますが、それでもまだまだ課題は山積みで、これからも災害の度にそれは改善されていくでしょう。


次に起こる南海トラフ巨大地震や、首都圏直下型地震ではどのような問題が浮き出てくるのでしょうか。