南海トラフ地震警戒情報

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犠牲者千人を超えた昭和の大地震!三陸沖や東南海沖でも巨大地震!

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昭和の三陸地震


1933年3月3日の午前2時31分、東北地方の三陸沿岸の人たちが地震を感じました。


地震による被害は建物の壁に亀裂が生じて崖が少し崩れ、石垣や堤防の一部が決壊する程度でした。


しかし、その約30分後に津波が襲いかかり、死者・不明者の総数が3064人という大惨事となりました。


岩手県沿岸の津波は著しく、大船渡市の綾里湾で遡上した波の高さは28.7メートルに達しました。



岩手県宮古市では人口1798人中763人が、そして戸数362軒のうち358軒家屋が波にさらわれました。


1896年の明治三陸地震津波で高台に移転したものの、年月の経過とともにもとの場所に戻ったため、ほとんどが津波の犠牲となってしまったのです。



三陸地域では、「津波てんでんこ」と言い伝えられています。


これは、津波に襲われた時には、たとえ肉親であっても、まわりにかまわず「てんでんばらばら」に逃げて、自分だけでも助かれ。という意味です。



犠牲者千人以上の大惨事となった鳥取地震


1943年3月4日の午後7時13分、鳥取市北部でM6.2の地震が発生しました。


さらに約20分後にM5.7の地震、翌日の午前4時50分にM6.2の地震が連続的に発生し、鳥取市内で数軒の住家が倒れました。


しかし、後から見るとこれは前震活動だと考えられています。



後に大惨事となった「本震」は、半年後の1943年9月10日に突然襲いかかりました。


午後5時36分、勤めを終えた人たちが夕飯の準備が整いつつある我が家に帰り始めた頃、突如として地面が激しく揺れ始めました。


『鳥取県震災小誌』
道を歩いていた者は、瞬時に地上に投げ出されている自分を見出した。
立ち上がろうにも立てないのである。
そこかしこの家々からおこる悲痛な叫び声に続いて、バラバラと身一つで逃げ出る人びと。
かくてこの瞬間に、家々の建物は、目の前で凄まじい土煙を立てて崩れていったのである。


積雪対策で屋根が重く、老朽化した建物が多かったことから圧死者が相次ぎました。


県立鳥取高等女学校では、夕食をすませた21人の寮生が、それぞれの部屋で談笑していたが、激しい揺れで、轟音とともに寄宿舎が崩れ落ち、梁などの下敷きとなった7名が命を失いました。



このM7.2の本震(鳥取地震)から数分後、市内の各地で倒れた建物の炊事場から火が出ました。


風呂場や倉庫の薬品からも出火しました。


道路を覆った瓦礫や電柱が消防車の行く手を阻み、水道管も破裂して消火活動が阻まれました。


それでも、にわか雨でマンホールに溜まった水を使い、日頃から訓練された消火活動などで、12日午前5時にようやく鎮火しました。



死者1083人、全壊家屋7485軒にのぼる大惨事となりました。


特高警察による『鳥取県震災小誌』が唯一の被害記録ですが、極秘扱いとされました。


地震から3日後の新聞の一面には、ニューギニアのホポイ島での戦果が大きく取り上げられ、二面に地震の被害が簡単に書かれました。


ちなみにこの地震は、吉岡断層と鹿野断層が活動したと考えられます。



東の南海トラフを区分するきっかけとなった地震


1944年12月7日の午後1時35分、紀伊半島南東沖から南海トラフのプレート境界に沿って、駿河湾の手前まで岩盤が破壊されました。


地震の規模はM7.9で、安政の東海地震(M8.4)に比べてはるかに小さく、「東南海地震」と名付けられました。


1970年代後半になって、歪みが解放されなかった駿河湾に「東海地震」が想定され、紀伊半島南端沖より東の南海トラフを東海地震・東南海地震と2つに分けて表現するようになりました。



東南海地震では沖積低地や埋め立て地の被害が目立ちました。


地盤のよい台地と、河川に沿う低湿地で構成される静岡県浜松市では、伊場町・寺島町・砂山町・白羽町など低湿地の集落が顕著な被害を蒙りました。


軍需工場の多くは軟弱地盤に造られており、機械類を設置するために壁や柱を少なくしていたので、大半が倒壊ひて多くの従業員が圧死しました。


静岡県袋井市と磐田市の間を流れる太田川の堤防は真ん中が2メートルも沈下し、東岸の低地にある今井村では322軒ある家屋がほぼ全壊して、わずか十数軒しか残りませんでした。



三重県尾鷲町では地震の約20分後から6波の津波が押し寄せ、死者29人、行方不明者67人、全壊および流失家屋604棟という被害を蒙りました。


『昭和大海嘯記録』
地震から十数分後に、津波が怒濤となって押し寄せた。


町民は神社や学校に避難したが、大半の民家は見る見るうちに将棋倒しになった。


津波が引き始めると、倒壊家屋の古材が浦に充満して材木の上で人々が助けを求めた。


家族のことが心配になって、出漁中の沖合から引き返して転覆した人たちも波間に漂った。


避難した人たちは、眼前で溺死する肉親・知人を見ながら、どうすることもできずに、地団駄を踏んで泣き叫んだ。


三回目、四回目の津波で被害はますます拡大した。


この地震で1000人近く亡くなりましたが、政府の厳しい報道規制のため、救援物資も届かず、当時の空襲の恐怖に曝されながら、多くの遺体が河川敷で火葬されることになりました。



町が全滅し犠牲者2千人「三河地震」


年が明けて、1945年1月13日未明の午前3時38分、愛知県南部をM6.8の三河地震が襲いました。



愛知県西尾市を南北に走り、南端でL字のように東へ折れ曲がった横須賀断層。


額田郡幸田町を東西に横切り、東端で南南東方向に直角に折れ曲がって三河湾の海底に続く深溝断層。


この2つの活断層が活動して地震が発生しました。


深溝断層の南西側の地面が北東に向かって移動し、幸田町では、水田の畦が垂直方向に最大2メートル、左横ずれ方向に最大1.3メートル変位し、愛知県指定の天然記念物となっています。



これらの活動した断層の近くに被害が集中し、死者は1961人を数えました。


幡豆郡の吉良町、福地村、三和村、西尾市


碧海郡の明治村、安城市


宝飯郡の蒲郡市


などはほぼ全滅し、学童疎開で寺に分宿していた名古屋の国民学校の児童や教師の多くが犠牲となりました。


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