南海トラフ地震警戒情報

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犠牲者10万人超え!歴史上最大の被害を及ぼした「関東大震災」と「明治の東日本大震災」


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東日本大震災を超える被害「明治三陸地震津波」


1894年10月22日の午後5時35分、山形県西部をM7.0の地震が襲いました。


県内で死者726人、全壊家屋3858軒という被害を蒙りました。


また、夕食の支度の時間と重なって大火災となり、酒田では1747戸が焼失しました。



その2年後の1896年6月15日の午後7時32分、東北地方の三陸沿岸から約200キロ沖合の太平洋海底で推定M8.5前後の巨大地震が発生しました。


まさに明治の東日本大震災です。



陸上では震度2~3の揺れが長く続きました。


気にもとめるほどの揺れではありませんでしたが、35分程経ってから、三陸海岸に大きな津波が押し寄せました。


満潮と重なる不運もあって、津波の高さは尋常ではなく、岩手県の沿岸を中心に1万戸近い家屋が流れ去り、死者総数が約2万2000人という大惨事となりました。


ちなみに東日本大震災の死者・行方不明者は1万8000人超で、当時の人口の差を考慮しても、人的被害では東日本大震災をはるかに上回っていることがわかります。


その最大の要因は、「津波地震」でした。


東北日本の北側に沿って海底に延びる太平洋プレートと北米プレートの境界が、250キロの長さで、ゆっくりと上下にずれ動いたことにより、揺れは小さくなりましたが、大きな津波が発生しました。


揺れが小さかったために、あまり危機感を抱かなかった人たちが不意をつかれたように押し寄せた津波に次々と呑み込まれていったのです。



また、その後に次々と内陸で誘発地震が発生しています。


秋田県の仙岩付近でM5.5、M6.8、M6.4と地震が続けて発生し、横手盆地でM7.2の地震が発生しました。



驚愕の被害!大正関東大震災


1923年9月1日、日本海沿岸を台風が北上し、前夜から降っていた関東地方の雨もあがり、風が強くて蒸し暑い日を迎えていました。


そんな日の午前11時58分、中央気象台や本郷の東京帝国大学地震学教室にある地震計の針が、突然、何かに怯えたように動き始めました。


そして、数秒後から激しさを増し、10数秒後には地震計の針が飛んでしまいました。


歴史上最大の被害を与えた「関東大震災」はこうして幕を開けたのです。



おもちゃのように崩れ落ちていく街中


煉瓦や石造りの建物が多かった横浜市の中心部では、官公庁や外国商館をはじめ、多くの建物が瞬時に倒壊しました。


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市民の憩いの場だったグランドホテルは大音響とともに崩れ落ち、200人いた従業員のうち生き残ったのは僅か8人だった。


開廷中の横浜地方裁判所は、訴訟関係者・傍聴人や所員百数十人を包んだまま一瞬で全壊。


保土ヶ谷町の富士瓦斯紡績でも、工場の煉瓦の壁が一気に崩れて454人が圧死しました。


川井と野毛山にあった浄水場は大破し、各地で水道管が破裂しました。



東京でも9階建ての丸の内ビルが波に漂う木の葉のように大きく揺れました。


浅草では12階建ての凌雲閣が8階から折れて、上の4階がお辞儀しました。


10階までが煉瓦、最上部の2階が木造で円筒形の建物でした。



芝区では鉄筋3階建ての日本電気の工場が約400人を収容したまま倒壊しました。


全体として、地盤の軟弱な下町の低地が大きな被害を受け、河川が流れていた凹地に柔らかい地層が堆積した地域の被害が顕著でした。



安全な広場に避難した人々を襲った「旋風」


余震が続く中、安全な場所を求めた人たちが広い空間に集まりました。


東京の墨田区にある被服廠は、陸軍用被服の調達・製造の役所を取り壊した2万数百坪の巨大な空き地でした。


隣に安田財閥の邸宅と庭園があり、現在では、この空き地に両国国技館と江戸東京博物館が並んでいます。


その広大な空き地に、荷車や背中に家財を満載して非難した人々には安堵感が漂い、その後に起きる地獄絵図の予感は一切ありませんでした。



昼食準備の時間帯に地震が起きるという不運が、台所や食堂の七輪・竈からの出火を招きました。


また、学校・試験所・研究所・医院などの棚から落ちた薬品類も炎上しました。


東京全体の百数十地点から火が出ましたが、江戸時代に多かった井戸は衛生上の問題で埋められ、水道管は地震で破壊されたため、ほとんど火は消火できず次々と燃え広がりました。


火は風速10メートルを超える南南西の強い風に煽られながら合流し、炎を包む大気が渦巻きながら上昇する「旋風」を引き起こしました。



大きく膨れ上がった火の塊は、油の煮えたぎる時のようなグツグツという音をたてながら、堀や川の表面を滑るように突き進みました。


隅田川を遡り、川の水を捲き上げながら、午後4時頃に安田邸へ達しました。


邸の直上が黒い煙に覆われた次の瞬間、耳を貫く爆音とともに、避難民で埋め尽くされた空き地に旋風が襲いかかったのです。

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空に舞い上がる畳やトタンや荷車に混じって、多くの人々が小豆を投げたように宙に飛びました。


荷物に燃え移った火は一面に広がり、泣き叫びながら広場の中央に集まった人たちの屍は焼け爛れて白骨の山となり、樹木はしぼったタオルのように曲がりくねりました。


午後4時頃から6時までのわずか2時間の間に、被服廠跡地で4万4000人余りの人の命が失われたのです。



関東各地で燃え広がる炎


本所・深川・日本橋・京橋から避難民が集まった隅田川下流の永代橋では、川の両岸が燃えました。

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橋の中央に向かって押し寄せた人たちの荷物にも火が移って橋が焼け落ち、川には焼死・溺死者が重なり合いました。


荷物を持ち込むことを禁じた新大橋は、隅田川で唯一、焼けずに残りました。



浅草区の田中小学校では1000人余が焼死しました。


吉原公園や本所区の横川橋北詰や錦糸町駅など、広い空間や橋の周辺に多くの人が集まり、皆、猛火に包まれてしまいました。

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一方、北東側にあった耐火構造の三井慈善病院が火を遮断した神田区佐久間町・千代田区やひょうたん池の水を使った浅草公園では、住民による必死の消火活動によって類焼を免れました。



横浜では多くの人が避難した堅固な石造りの横浜正金銀行も猛火に包まれました。


地下室に追いつめられた人々は扉を密封し、翌朝まで耐えて救出されましたが、扉の外には逃げ場を失った130余りの焼死体が横たわっていました。


多くの市民が閉じこめられた横浜市役所も、屋根に火が燃え移って午後4時頃に全焼。

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末広橋付近では、地割れに足を取られた数百人が重なり合って炎に包まれ、泥水に浸かった人たちは蒸し焼きとなってしまいました。


出航直前の船から5色のテープが輝いていた横浜港では、突然の揺れで桟橋が崩壊して海面は波打ち、燃え移った火の中で溺死者・焼死者が相次ぎました。


停泊した船に避難した人たちも、火だるまとなった船と共に犠牲になりました。


一方、約5万人が避難した横浜公園にも猛火が襲いかかりました。


しかし、ここでは壊れた水道管から大量の水が流れ出していたのが幸いして、被害は最小限に食い止められました。



M7クラスの余震が6回発生


この地震は「大正関東地震」と呼ばれ、相模トラフに沿って右横ずれしながら潜り込んでいるフィリピン海プレートの境界から発生したものだと考えられています。


地震の規模はM7.9と巨大で、被災者の体験談や各地の地震計の解析から、その後の半年間にM7クラスの余震が少なくとも6回発生していることが明らかになりました。



何度も繰り返しM7クラスの地震が発生し、その大規模な余震に襲われる度に被害は拡大していきました。


神奈川県小田原町では5000余の建物のすべてが倒れ、至る所に地割れが生じました。


小田原城の石垣は大きく崩れ落ち、郊外にある寺町の小田原紡績工場も全壊しました。


十字町や新玉町などから出た火は天を焦がし、大音響とともに瓦・戸・障子を捲き上げる旋風を引き起こしながら小田原町全体の3分の2を焼き尽くしました。


箱根町では7000戸が全壊して湯坂山や塔ノ峰などが大きく崩れました。



小田原町の南で、相模湾に面した片浦村根府川地区では、地震から5分後に波高数メートルの津波が押し寄せました。


同時に、1.8キロの長さにわたって背後の山が崩れ落ちました。


崩壊した岩や泥は空気を圧縮して「岩屑なだれ」となり、根府川集落の64戸と406人を呑み込みました。


一方、根府川駅のホームに入った小田原発の列車は、背後の崖が崩れたため、乗客を乗せたまま海岸へ転落し、直後に津波が襲いかかって100人余が命を失いました。


さらに南に位置する真鶴村の建物は倒壊・炎上して、海岸付近では津波に押し流されました。


一方、相模湾東端の鎌倉町では2千数百戸が全壊した後に燃え尽き、津波が由比ヶ浜海岸にいた人々や海岸付近の家屋を押し流しました。



大正関東地震の被害「犠牲者10万人超え!」


関東大震災による死者・不明者は10万人を超え、圧死などが1万4000人、それ以外のほとんどは火災による犠牲者でした。


また、全壊家屋は12万8000余、焼失家屋は44万7000余に上りました。



次に発生するとされる関東の直下地震、もしくは相模トラフ沿いの巨大地震ではこれ以上の被害が及ぶ可能性が高いとされています。


揺れ自体で倒壊する建物は昔ほど多くはなくとも、高層ビルや高速道路など、現代ならではの違った種類の被害が生じてきます。


また火災や旋風は高層ビルの密集した首都圏ではさらに被害を拡大させることになるかもしれません。


万全に地震に備えるためには、このような歴史から学び、予測することも必要です。


【都道府県別】首都直下地震の被害想定と関東大震災の被害想定。 - 南海トラフ地震警戒情報