南海トラフ地震警戒情報

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「岐阜が消えてしまった。」岐阜を壊滅させた『身の終わり地震』とは?

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濃尾地震の発生と大火災


1891年10月28日の午前6時38分、内陸地震としては最大規模の地震が発生し、岐阜や愛知などを恐ろしいほどの揺れが襲いました。


後に「濃尾地震」と呼ばれる、マグニチュード8クラスの巨大地震です。



名古屋市内の名古屋郵便電話局・尾張紡績工場・名古屋電燈会社など、煉瓦造りの7棟が崩れ落ち、愛知県における木造家屋の全・半壊は15万棟に上りました。


特に、木曾・長良・揖斐川に沿う地盤の軟弱な輪中地域の被害は著しく、家屋の大半が倒れました。


運悪く朝食の支度の時間帯に重なり、倒れた家屋の下から燃え上がった釜戸の火が新たな悲劇を呼び寄せました。


消火器類は倒れた家の下に埋まり、井戸は砂を吹き出して枯れ、瓦礫が狭い街路を遮断するという八方塞がりの中で、岐阜市鍛冶屋町から燃え広がり、北西からの強い風に煽られて一瞬で市街のほぼすべてを焼き尽くしました。


「岐阜は消えてしまった」と言われるほど凄惨な結末でした。



この日は親鸞上人の命日でした。


岐阜県大垣市の開闡寺では、参拝していた約80人を収容したまま本堂が倒壊しました。


さらに直後に燃え上がった火で黒く焼かれ、年齢や性別さえ識別できない屍が重なり合っていました。


羽鳥郡笠松町では町全体の9割が燃え、羽鳥市竹鼻町の東本願寺別院も倒れ、読経中だった信者のうち数十人が巨大な柱の下で息絶えました。


愛知県北端の犬山市では1000軒余の家屋が倒れ、犬山城にある戦国時代の天守閣も西南端が崩れ落ちました。



身の終わり地震で犠牲者は7千人超


この地震では、温見断層・根尾谷断層・梅原断層など、北西ー南東方向に連なる濃尾断層帯が活動しました。


日本列島が80キロ近くにわたって切断され、地震規模はM8.0となりました。


「美濃ー尾張地震」
として世界に知られた濃尾地震では、


「美濃(みの)ー尾張(おわり)」という、


その文字通り、身の終わりを思わせる地獄絵図の中で7千人以上もの命が失われ、15万近くの家屋が全壊しました。



世界的に有名な濃尾地震の地震断層


岐阜県本巣市の水鳥では、まっすぐに延びる道路を斜めに横切って急崖が姿を現しました。


根尾谷断層を境にして、西側の地面が約6メートル上昇して道路を切断し、約3メートル左横ずれさせたのです。


特定の地震による断層変位を、その地震の「地震断層」と呼び、この濃尾地震の地震断層の写真は外国の教科書にも掲載されました。


また、1992年には水鳥の断層崖に地震断層観察館が建設され、地下で断層を直接観察できるようになりました。



巨大地震後の混乱


地震直後に国から岐阜県に150万円が給付されました。(明治20年代の1円は約100万円)


しかし、主に使われたのは木曾・長良・揖斐川の堤防修復費で、人民救済費としてはわずか10万円しか使われませんでした。


震災から2週間後の臨時岐阜県会で知事が提案した救済費も、一日分の食料が「男一人二銭七厘・女一人一銭八厘、小屋掛料(現在で言う仮設住宅)10円以内」という乏しさでした。


一方、全国の新聞社が集めた義捐金は14万円を超えました。



11月上旬に発足した震災救済同盟会は知事の震災対策を非難しました。


そして、11月23日には帝国議会や政府への嘆願のため、岐阜公園に数百人が集結しました。


翌日、西別院本堂下に集まった5000人の罹災者と警察官が衝突し、県会議員3名を含む100人余が検挙されました。


後にこの混乱は「西別院事件」と呼ばれるようになりました。


国内最大規模の内陸地震が残した地震断層が直接観察できる施設「根尾谷地震断層観察館」 - 南海トラフ地震警戒情報