南海トラフ地震警戒情報

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東海地震の翌日に南海地震が発生!東海、四国、近畿などが一瞬で地獄に!

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安政東海地震の様子を詳しく記録した「下田記行」


1854年12月23日の午前9時過ぎ、大地が激しく揺れ、東海地域を中心とした太平洋沿岸が大津波に襲われました。


高台にある長楽寺に滞在していた村垣淡路守の『下田記行』には、この時の様子が詳しく書かれています。



津波ということで、すぐに御朱印を持たせて本堂を出ると、早くも、市中の人家の中に4、500石積くらいの船が2、3艘流れ込み、門前町まで水が来ていた。


本堂脇で秋葉神社のある山へ登って見ると、いったん水が引いた様子で、間もなく二度目の津波が押し寄せた。


恐ろしい勢いで、たちまち防波堤を押し崩し、1000軒余りある人家を片はしから将棋倒しにして、自分の宿舎となっている長楽寺の門の石坂の半ばまで水がやってきた。


黒煙を立て、船を押し込み、家が崩れ、人々は泣き叫び、地獄とはこんなものかと思った。


引き波になり、大きな家も小さな家も、蔵なども皆押し流し、半分以上が海中に流された頃、また津波が押し寄せてきた。


そして、正午過ぎまでに、津波が7、8回も押し寄せた。


二度目の津波が特に激しく、下田町が野原になってしまった。


また、後で聞いた話として、下田の市中では、揺れで家が少し損傷する程度で、伊沢美作守の泊まっていた稲田寺では石塔が皆倒れた。


長楽寺は岩石の山にあったので、被害の程度はごく軽かった。



東海地震による静岡県の悲惨な光景


ロシア大使のプチャーチンが乗り組むフリゲート艦「ディアナ」は1854年11月8日に突如として大阪湾の安治川河口に姿を現しました。


その翌月の23日、下田市の湾に停泊していたディアナ号を大規模な地震と津波が襲いました。


『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』
9時45分、船は約1分間ひどい揺れを感じた。


(中略)


午前10時、大波が湾内へうねりながらやってきた。


海岸の水位は急速に高まり、下田の町を沈めてしまった。


フリゲート艦の乗組員には、まるで町が沈下していくかのように見えた。


(中略)


二度目の波が湾内へうねりこんだ。


今度の波は、浮いていたボートすべてを岸に運び去った。


しかもその波が引くときには、下田の町を形作っていたすべての家屋が港内に洗い落とされていた。



『プチャーチン提督報告書』
渦巻きに捲き込まれたディアナ号は、島の方や岸の方へ著しい速度で引き寄せられ、30分間に42回も回転した。


下田町にとって第二の波は致命的で、海面は約6.4メートルの高さになり、町全体を覆い尽くした。


そのうち、ディアナ号が左に傾きはじめ、新たな波によって持ち上がりはじめると、甲板からうめき声が聞こえた。


右舷の砲門が転覆して水兵ソボレフが下敷きとなって死亡し、下士官が足を捻挫して水兵が腰から下に裂傷を負った。


津波が収まった時には海水が浸水し、舵機が破損して下頭部と船尾の大半が破壊されていた。



この間、鑑の傍らを、丸太や小舟、藁屑や衣類、溺死体、板や木材につかまった生存者たちが漂流し続けました。


乗組員は救命綱を降ろすなどの救助を行い、新田町宅左右衛門の80余歳の母と他の2名が救われました。


一方、家屋が洗い流された下田の町では、数百から1000石の廻船が田んぼに乗り上げ、海から運ばれた泥や砂の間には溺死した無数の遺骸が散乱していました。


この修羅場に足を踏み入れたプチャーチンは、通訳、医師とともに川路を訪ねて、負傷者の治療に協力したいと申し出ています。



『下田日記』
魯西亜船も三人迄助けたり。


魯人のはなしにては、同船脇を百人も、其余も通りたりと也。


魯人は死せんとする人を助け、厚く療治の上、あんままでする也。


助けらるる人々、泣きて拝む也。恐るべし。心得べき事也。



東海地震の翌日にさらに激しい南海地震が発生


安政東海地震の翌日、1854年12月24日の午後4時頃に「南海地震」が発生しました。



避難した山から戻った直後に襲った南海地震


紀伊半島南端の和歌山県東牟婁郡串本町では、前日の東海地震の揺れと津波に肝を潰した人々が山へ逃げ込み、飯を炊いて夜を明かしました。


翌日、荷物を持って家に帰ると、夕方になって、さらに激しい南海地震の揺れに襲われました。


家屋のきしむ音とともに屋根瓦が落ち、軒は傾いて人々の泣き叫ぶ声が響きました。



やがて、潮が引いて海底は赤饅の生えたようになり、津波を恐れた人々は一斉に山へ戻りました。


そして直後に、高さ9メートル近い大津波が襲いました。


古座の下地では80軒の家屋が呑み込まれましたが死者はなく、浦神では死者7名、尾鷲では、すべての家が流されて350人が犠牲になりました。



四国地方を襲った巨大津波


四国南西部では東海地震の揺れや津波は小さく、突然襲った南海地震によって大きな被害を受けました。


高知県黒潮町の住人小野桃斎は、この地震について次のように書いています。


黒潮町の浜は一面が荒磯のようになり、数隻の小舟が六反の畑へ打ち上げられ、80石積の市艇が二艘、浜へ碇を引きながら打ち上げられ、大半の人家が海へ流された。



高知県宿毛市の鷣神社には42段の石段があり、宝永地震では下から39段までが波に侵されましたが、今回の地震では下から7段まででした。


ちなみに、1946年の昭和南海地震では石段まで達してすらいませんでした。


昭和南海地震でも相当な甚大な津波被害が生じましたが、それを上回る津波が襲ったということになります。


しかし、それをもはるかに上回る津波が押し寄せた「宝永地震」はどれほど大規模であったのか、想像もつきません。



大阪市街でも甚大な被害


大阪の市街でも、大きな横揺れが2分以上続きました。


『近来年代記』には、
京町堀羽子板橋北詰角では4、5軒が崩れ


両国橋籃屋町角では間口17、8軒が崩れ


北久太郎町丼池を北へ入った所で4、5軒が崩れ


永代浜では大土蔵が崩れ


坐摩社の石鳥居は微塵に崩れ


絵馬堂は総崩れ


北堀江4丁目では5、6軒が崩れ


幸町東ノ樋より南へ5、6軒、
堂島桜橋南詰では西へ7、8軒、
安治川3丁目では14軒が崩れ


同所順正寺の茶ノ間や本堂は残らず崩れ


立売堀中橋は両側が崩れた


など、大阪市街の被害を克明に記録しています。



『都市大災害』
大阪湾に侵入した津波は、地震から約2時間後に大阪の沿岸に達し、天保山付近では2メートル近い高さになった。


この時、土佐堀・江戸堀・長堀・道頓堀などの水路には、上荷船・堀江船・茶船・剣先船など多くの小舟が浮かび、「地震の時には船が安全」と誤解をした多くの人たちが避難していた。


河口に達した津波は海岸に停泊していた千石船を押し流しながら河川や水路を遡り、橋を打ち壊しながら侵入した大船は無数の小舟の上に乗りかかり、折り重なり合いながら上流へ向かって流された。



『末代控』
昨今の地震に恐れ、老若男女貴賤の別なくうろたえ騒ぎ、茶船・剣先船・家形船などに思い思いに乗り移って、揺り潰される憂いがなくなったと悦んだ甲斐なく、一気に津波が押し寄せ、船もろともに水底にひっくり返って、泣き声が大坂中へ響き渡り、まことにあわれ至極で目も当てられぬことになり数百人が水死した。



この地震の翌年、大阪市浪速区の大正橋東詰に、犠牲者の霊を弔う石碑が建立されました。


昭和南海地震とその約1年半後に起きた犠牲者5千人超の内陸地震 - 南海トラフ地震警戒情報