南海トラフ地震警戒情報

自ら四国沿岸部へ移住し南海トラフ地震の観測、研究をしています。南海トラフをはじめ、その他の巨大地震などを潮位、地殻変動、マグマ、火山活動や静穏化現象などの様々な異常を総合判断し、警告します。 ※人的被害を減らすのが目的で、予言などではありません。


歴史上最大規模の南海トラフ巨大地震「宝永地震」の恐ろしい記録

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日本列島を襲った超巨大地震「宝永地震」


1703年に発生した元禄関東地震で甚大な被害を受けた日本列島に、再び巨大地震が襲いました


1707年10月28日午後2時頃、南海トラフのほぼ全域で、プレートが一気に破壊されました。


東海地震・東南海地震・南海地震が同時に発生した3連動地震で、記録に残る南海トラフ沿いの地震では最も規模が大きいとされています。


このときの地震は「宝永地震」と呼ばれています。



四国では壊滅的な被害


四国の、高知城下の被害の記録だけを見ても、1万11707の家が津波に流され、1742の家が倒壊し、死者は1844人と被害の大きさがわかります。


また、太平洋沿岸の浦に立地した集落は大津波に流されて、古文書には全滅を意味する「亡所」という文字が数多く記されています。



四国南西端の宿毛市にある神社には42段もの石段があります。


その石段の下から39段までが津波に侵されたと記録されており、津波の高さも尋常ではなかったということが伺えます。



また、南海地震の特徴として、愛媛県の道後温泉の湯が40日前後ほど止まるという現象があります。


しかし、今回の地震ではその3倍を超える145日間も湯が出なくなったと記録されています。


香川県の讃岐では、屋島の東に並ぶ五剣山の東端の一峰が大音響とともに崩れ落ちて四つの峰となったとあります。



大阪で記録された被害の様子


大阪平野南部、現在の南河内郡の庄屋が記録した『河内寺可正旧記』には周辺の被害が詳しく書かれています。


大ヶ塚善念寺の御堂の三方の壁が崩落し、台所が大破し、その他小家が四、五軒崩れた。


久宝寺の本堂の御座間が崩れ、久宝寺村にある七〇〇軒のうち三〇〇余が崩れた。


八尾の御坊の台所が崩れて火事になって焼け、慈願寺が残らず崩れた。


柏原で四六軒が崩れ、その他大曲・小曲(被害の程度)があった。


誉田では三六軒が崩れて、その他は残らず曲がった。


古市と広瀬が大破した。


現在の羽曳野市では曲がらなかった家が一軒もなく、崩れた家は数知れない。


泉州の堺では合わせて三八一軒が崩れた。



この地震では大阪湾にも津波が押し寄せて市街の川や堀をさかのぼりました。


『今昔地震津波記』
道頓堀の日本橋まで、迎船六、七○隻が飛び込み、五○石や三○石の船は大船に押し倒されること数知れなかった。


日本橋西の橋が落ち、堀江川では堀江橋まで落ちた。


長堀は無事だったが、安治川筋では堂島田簑橋まで落ちた。


渡辺橋はかなり損傷して往来を止め、寺島・勘助島上下・博労近辺の家々は残らず流れた。


阿波座・新靱・京町堀は大分崩れ、雑喉場は大半が崩れ、残りは流れた。鰹座は残らず崩れて死人が夥しかった。



残された貴重な宝永地震の「体験記」


尾張藩の御畳奉行、朝日文左衛門重章の日記『鸚鵡籠中記』には、34歳で実際に体験した宝永地震について書かれています。



書院で夕飯が出て酒が一回りする時、東北から鳴り響いて末の刻に地震が起きた。


だんだん強くなって鎮まらないので、座中の皆は申し合わせて庭へ裸足で飛び降りた。


地震が倍の強さになり、書院の鳴動が夥しくなった。


大木はざわめいて大風が吹くようで、大地は揺れて歩くことができない。


石塔の倒れる音は言葉にできない。


ようやく鎮まって座敷に上がると、三の丸が火事になったというので、手酌で三杯酒を飲んで、急いで帰宅して、両親と家内の安否を確認して、政右と一緒に御多門へ向かった。



また重章は、武家屋敷では塀の七、八割が崩れ、古田勝蔵屋敷の地面が裂けて泥水が湧き出して地形が五、六寸ずつ沈み、枇杷島東の大橋の中程のニ、三間で柱が沈んだことの他、寛文ニ年の地震より今度の地震の揺れが強くて長く続いたと書いています。


一方、土佐国では高潮が城下まで侵入し、紀州の尾鷲町では家1000軒以上が流れて男女が残らず漂流して死に、


大阪では川口にあった数百艘の大船が津波で道頓堀芝居下や日本橋の下まで押し寄せました。


伊勢湾沿岸の四日市では家が530軒流れ、浜名湖周辺の白須賀・新井では津波で人馬が多く死んで新井にある204艘のうち、わずか5艘だけが残りました。


宝永大噴火の発生


この宝永地震から49日後の12月16日、富士山の山頂から南東方向に下った位置にある宝永火口から噴煙がのぼりました。


その後、5日にわたって激しい噴出が続き、東の麓の村々は闇夜の状態が続きました。


真っ赤な火山噴出物が須走村に降り注いで75軒の家々を壊滅させ、大御神村などの村々は火山灰に埋もれました。


新井白石の『折たく柴の記』にも、江戸に火山灰が降下した様子が書かれていますが、その火山灰は約半月ほど降り続きました。