南海トラフ地震警戒情報

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南海トラフや三陸沖でも「津波地震」が発生する可能性がある? 大規模な元禄関東地震の被害とは?

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1605年、南海トラフ沿いの「津波地震」


1605年2月3日午後8時頃、太平洋沿岸の広い範囲が津波に襲われました。


浜名湖周辺では、
其夜自関東上者、今切之東舞坂に宿、右之魂打と聞へければ、俄に大波来て、橋本に家百間程有所に、八十八間計潮引て行、纔二十間計残ける、人多死、折節舟に乗合ける者、荷物をはね、舟は山際へ打上げる」(当代記)。


徳島県東海岸の『宍喰浦旧記』によると、
辰半刻より申上刻まで大地震にて、同酉の上刻で月が出る頃より大津波が押し寄せ、宍喰浦全体の泉から水がわき出して二丈(六メートル)余り上り、地面は裂けて水がわき出し、言語を絶する大変事だった。その頃、人々は古城山(愛宕山)に逃げ登り、その人数は一七○余人で、老人や子供は途中で波に打ち倒され、皆々流れ死んだ。


『房総治乱記』には、
慶長六年十二月十六日、大地震、山崩海埋て岳となる、此時安房、上総、下総、海上俄に潮引て、三十余町干潟となりて、二日一夜也、同十七日子の刻、沖の方夥く鳴て、潮大山の如くに巻上て、浪村山の七分に打かくる、早く逃る者遁れ、遅く逃る者は死たり


と津波が描かれています。



この地震では、太平洋沿岸に津波が押し寄せたものの、地震動は小さくて京都でもわずかに揺れを感じた程度でした。


南海トラフから東海地震と南海地震が同時に発生したと考えられていますが、地震規模はいずれも約M7.9程度で、揺れが小さくて津波だけが押し寄せる「津波地震」だったと考えられています。


証拠としては、浜名湖の西にある遺跡で、1605年の地震に伴う、厚さ10センチ前後の津波堆積物が見つかっています。


1611年に三陸沖でも発生した「津波地震」


1611年12月2日、三陸沖でM8クラスの巨大地震が発生しました。


地震動に比べて津波の規模が大きい津波地震で、三陸沿岸から北海道東岸にかけての地域が大きな被害を蒙りました。


伊達藩では1783名と牛馬85頭、南部津軽藩では人馬3000余が溺死したと記録があります。


高さ4メートル近い海水は進退を3回繰り返し、多くの人が溺死して財産を失いました。(金銀島探検報告)



1662年に起きた「日向灘地震」の被害


1662年10月31日の午前零時。
1ヶ月余り雨が降らず、海面は気味悪いほど穏やかでした。


とりわけ暑くて寝苦しかった日の真夜中に、激しい揺れが人々を襲いました。



『殿中日記』
佐土原藩では、城内で約30軒の長屋が倒れ、ニ之曲輪の冠木が上から崩れ落ち、地面が幅約1メートルほど割れ、田畑も少なからず損なわれて山が崩れた。


侍屋敷・寺町・百姓家など全部で800軒余りが潰れ、人や牛馬が多く死んだ。



『日向纂記』
日向の地が大いに揺れ、津波がにわかに襲い、那珂郡の下加江田・本郷などが海となり、その範囲は周囲約三○キロ、田畑八五○○石余に及び、米粟二三五○石余が流失した。


一二一三戸の潰家のなかで海に浸かったのは二四六戸、二三九八人のうちで溺死したのは一五人と牛馬五頭。



『延陵世鏡』
海辺の田畠、海となる事凡そ七八千石に余れり。


常に潮の満に、岩の頭をひたす所、地震後は、岩頭三四尺海底になり。


是を以て見れば、地の陥る事三、四尺余なるべし。


など、宮崎平野の広い範囲が1メートル余り水没したと書いてあります。


激しい地震動が日向国一帯を襲い、海岸の低地が水没したことからすると、日向灘の海底を震源とするM7クラスの大地震だと考えられます。


1703年、元禄関東地震の記録


1703年12月31日午前2時頃、関東地方南部の広い範囲が大きく揺れました。


『折たく柴の記』
癸未の年、十一月二十二日の夜半過る程に、地おびただしく震ひ始て、目さめぬれば、腰の物どもとりて起出るに、ここかしこの戸障子皆たふれぬ。


『徒目付千坂氏覚書』
土地は二三寸、所によっては五六尺程も割れ、砂または泥水を吹出した。
石垣は崩れ、塀は壊れ、家蔵は潰れ、穴蔵はゆりあげられて死人怪我人が一時にできて、男女老幼の泣き叫ぶ声は大風のごとくに鳴り渡り、所々から火事が起こった。
品川の海から大津波が打ちあげてきて、浜の方へ逃げ出した者は、そのためにことごとく波に捲き取られた。



『甘露叢』
房総半島北東側の犬吠岬から伊豆半島南端の下田にいたる範囲は津波に襲われ、安房小湊近辺で570軒、御宿で440軒、下田で500軒近くが流された。


特に被害が著しかったのは震源となった相模湾周辺である。


小田原では地震によって家屋が倒壊した後に焼失して多くの人が亡くなり、小田原から箱根までの道筋は大石が転び落ち、馬の通れる道もなくなった。


東海道の川崎駅から箱根駅まで潰家が多く、とりわけ戸塚から小田原までの宿場は残らず破損し、間に合った小さな宿も潰れた。


江戸から京都までの様子を綴った『祐之地震道記』


京都の下鴨神社祠官の梨木祐之は、地震の2日前の夜に江戸を出発して東海道を進んで、京都に着くまでの様子を『祐之地震道記』に綴っています。



彼は戸塚宿で地震に遭遇しました。


戸障子や小壁がへたへたと崩れかかり、皆、起きあがることができず座敷を這う。


立ち上がろうとすれば、足を踏ん張れずに横に倒れる。


光行とともに祐之は戸障子を踏み破って庭へ飛び降りた。


後ろの山も崩れており、塀の穴戸から隣家の裏に逃げると、もう隣の家も顚倒していた。


六日後に酒匂川まで来たが、土橋が崩れ落ちていたので徒渉の人夫を雇って川を越えた。


小田原にさしかかると駅の入口の番所が顚倒していた。


城も焼亡、宿中が類焼して焼け落ちていた。
人と馬の骸骨が至る所に見えて目も当てられぬありさま。


臭気が風に満ちて旅客は鼻を押さえて通り過ぎた。


駅の人に尋ねると、宿中の男女一六○○人ほどが命を失い、往還の旅人は何人犠牲になったかわからない。


たまたま家を逃げ出た者は、海辺に逃げ迷って津波に襲われたが、その数がどれほどか知らない。


家が倒れて籠の中の鳥のように出ることができず、声を上げて呼び叫んでも助ける者もなく、そのうちに火が回って焼死した。駅馬も残らず葬った。


相模トラフ沿いのプレート境界型巨大地震


この地震は、相模湾に沿って海底に延びるプレート境界から発生したもので、1923年の大正関東地震に対して「元禄関東地震」と呼ばれています。


元禄関東地震は、相模湾のプレート境界から繰り返し発生する関東地震の中でも、とりわけ地震規模が大きく、


相模湾の北部で発生した大正関東地震の規模はM7.9なのに対し、南まで震源域が及んだ元禄関東地震はM8.2程度とはるかに大きいです。


宮崎県で発生する地震 日向灘でM7~8クラスの津波地震 - 南海トラフ地震警戒情報