南海トラフ地震警戒情報

自ら四国沿岸部へ移住し南海トラフ地震の観測、研究をしています。南海トラフをはじめ、その他の巨大地震などを潮位、地殻変動、マグマ、火山活動や静穏化現象などの様々な異常を総合判断し、警告します。 ※人的被害を減らすのが目的で、予言などではありません。


前代未聞!南海トラフ巨大地震発生で数万人以上が津波の犠牲に!

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1498年に日本を襲った巨大地震と大津波


1467年から始まった応仁の乱。
京の町は一面の焼け野原と化し、戦乱は地方へ波及しました。


「下剋上」の風潮の中で、北条早雲が小田原城主となった直後の1498年9月20日午前8時頃、京の都が大きく揺れました。


被害は広い範囲に及びました。


関白太政大臣近衛政家による『後法興院政家記』には次のように書かれています。


伝え聞いた話として、伊勢・参河・駿河・伊豆で大波が打ち寄せ、海辺からニ〇-三〇の民家がことごとく水に溺れ、数千人が命を落とし、牛馬の類も数え切れないくらい犠牲になり、前代未聞のことだとあります。


また、これまで淡水湖だった浜名湖の南側が津波で浸食されて海とつながりました。



一方、鎌倉の由比ヶ浜では、海水が千度壇まで達して大仏殿の堂舎屋を破壊し、200人以上が溺死しました。


当時、美しい砂浜と松原を持った自然の良港として有名だった三重県の津港や大湊港は、周辺の松原とともに津波に襲われました。


この津波によって、大湊で1000軒以上もの家と約5000人の人が流され、伊勢志摩間では約1万人が流されました。


また、志摩半島の国崎ではほとんどの家と人が流されたと記録されています。


東海地震と南海地震が再び連動して発生


1498年のこの地震は、東海地震と考えられています。


最大波高8メートルを超える大規模な津波が関東から紀伊半島の太平洋沿岸地域を襲ったのです。



『熊野年代記』には、この地震で湯の峰温泉の湯が止まって、40日余り後に再び出始めたことが書かれています。


これは1361年の南海地震や、それ以外の南海地震で見られたものと全く同じ現象です。


和歌山市付近まで大きな津波が押し寄せたことや、湯の峰温泉の湯が止まるという現象は、東海地震とともに南海地震も発生した可能性を示唆しているのです。


しかし、肝心の四国で南海地震の存在を示す記録が見つかっていません。



偶然見つかった南海地震の証拠


このような史料の空白を埋める証拠が偶然、高知県の四万十市の遺跡から得られました。


1988年の8月末、高知県教育委員会が四万十川支流の中筋川南岸に沿うアゾノ遺跡を発掘していた際に、


川と平行する東西方向に延びる、幅2~5センチで長さ5メートル以内の砂脈を複数発見しました。


その後、砂脈に直交するトレンチが掘られ、当時の地面から深さ1.8メートルの位置に堆積した砂層から砂脈が上昇していました。


砂脈は河原と石と土器片を丸く並べた配石遺構を引き裂いており、配石遺構には14世紀後半から15世紀前半までの青磁碗や須恵器甕の破片が多く含まれていました。


砂脈はさらに上の地層を引き裂き、15世紀終わり頃の生活面に噴砂が流れ出していました。


この遺跡では、11世紀から15世紀末まで絶えることなく生活が続いていましたが、地震の後に生活の痕跡が途絶えていました。



さらに、四国東部の徳島県板野郡でも同じ年代の地震痕跡が見つかりました。


宮ノ前遺跡では、徳島県教育委員会が14世紀後半から16世紀初頭まで存続していた集落を囲む溝の調査を行っていました。


溝の内部に堆積した粘土を上から取り除いていくと、ある深さで砂が薄く広がっていたのです。


そして、この砂が、溝の少し下に堆積した砂層から上昇して、当時の溝の底に広がったことがわかりました。


噴砂は、溝の底から約30センチの厚さまで粘土が堆積した段階で流れ出しており、砂脈に引き裂かれた粘土には14世紀後半の青磁碗をはじめ多くの遺物が含まれていました。


噴砂の直上には15世紀末から16世紀初頭にかけての土師質土器が数点散らばっており、それより上の地層では生活の痕跡が途絶えていました。


つまり、15世紀の終わり頃に地震が発生し、集落が廃絶したと考えられます。



1498年の東海地震に対応する年代の地震痕跡は他の遺跡でも発見されました。


・高知県の船戸遺跡
・徳島県の古城遺跡
・徳島県の中島田遺跡
・大阪府の瓜生堂遺跡


など、四国各地の遺跡から15世紀終わり頃の地震痕跡が見つかり始め、愛媛県新居浜市の黒島神社に残る記録が注目されました。


明応七年の震災に、大地大に潰崩し、島の六七分は流失し、此度ニ三の遺島となれり
明応七年の震災に罹り、本殿拝殿共破壊し、住民四方に散乱し


明治時代に書かれた記録ですが、遺跡の地震痕跡と合わせて考えると、1498年に東海地震と連動して南海地震も発生した可能性が高いと考えられます