南海トラフ地震警戒情報

自ら四国沿岸部へ移住し南海トラフ地震の観測、研究をしています。南海トラフをはじめ、その他の巨大地震などを潮位、地殻変動、マグマ、火山活動や静穏化現象などの様々な異常を総合判断し、警告します。 ※人的被害を減らすのが目的で、予言などではありません。


1361年の南海トラフ地震「正平南海地震」 やはり東海地震も連動していた?

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1325年にまた琵琶湖周辺の大地震


1325年12月5日、午後10時頃に琵琶湖周辺に大規模な地震が発生しました。


この地震について、歴史書「続史愚抄」には、


琵琶湖と敦賀の間にある愛発と山中という場所で山崩れがあり、日吉社の八王子の神体が落ちて燈籠の灯が消え、延暦寺の十ニ輪燈が消え、竹生島が損傷したとあります。


琵琶湖の北端に浮かぶ竹生島は、常緑樹に覆われて神秘的な雰囲気が漂う霊場で西国巡礼の札所として知られます。


会津の心清水八幡神社で書き継がれた日記『塔寺八幡宮長帳』にも「竹生島の奥の院秘所、崩て湖に入」と、この島の一部が湖中に崩れ落ちたことが書かれています。



琵琶湖の北東部に発達する柳ヶ瀬断層は北北西方向に延びて若狭湾へ達しています。


琵琶湖西岸断層帯と柳ヶ瀬断層の間には、長さ10キロ前後の活断層が多く発達しています。


柳ヶ瀬断層のトレンチ調査を行った結果、この断層が13世紀後半から15世紀初頭までの間に活動したことが明らかになりました。


その時代の地震の記録などから、1325年の地震は、この柳ヶ瀬断層が引き起こしたのではないかと考えられています。



また、敦賀断層のトレンチ調査の結果によると、この断層の南部も柳ヶ瀬断層と一緒に活動した可能性が高いことがわかりました。


やはり南海地震と東海地震は連鎖するのか?


1361年8月3日の午前4時頃、日本列島の大地が大きく揺れました。


この時の地震について、南北朝五十余年の争乱を流麗な文章で綴った「太平記」には、広い範囲で大きな被害が生じて、現在の徳島県海部郡美波町が大津波に襲われたと書かれています。


1305年から60年間にわたって法隆寺の寺僧が書き綴った「斑鳩嘉元記」には、この地震の被害が詳しく書かれています。


法隆寺では御塔の九輪の上が燃え落ち、金堂の東の間の仏壇の下が燃えて崩れ落ちた。
東大門の北脇の築地が少し壊れて落ち、伝法堂の隅が南へ落ちた。
薬師寺の金堂の二回が傾き破れ、御塔・中門・回廊がことごとく倒壊し、西院も倒れて、その他の諸堂が破損した。
唐招提寺では塔の九輪が大破損し、西回廊がすべて倒壊し、渡廊がことごとく破損した。
天王寺でも金堂が倒壊した。
安居殿御所西浦まで潮が満ちて、その間の家や人民の多くが損なわれた。
熊野の山路や山河も多くが壊れ、湯の峰温泉の湯が出なくなった。


前内大臣三条公忠が1361年から33年間書き記した日記「後愚昧記」にも、四天王寺の金堂が倒壊して微塵となり、大塔の空輪が落ちて塔が傾き、五人が圧死したことが書かれています。


また、近衛道嗣の日記「愚管記」には熊野神社の仮殿や天王寺金堂が倒壊したことが書かれています。



広い範囲での激しい揺れと四国の大津波から、この地震は南海地震だと考えられています。



奈良盆地の南端にある明日香村には多くの古墳があります。


その中にあるカヅマヤマ古墳は、大がかりな盗掘によって墳丘の南半分の盛り土が取り除かれ、石室内部の副葬品と石材の一部が持ち去られていました。


さらに、盗掘の直後に発生した大地震によって石室の南半分が滑り落ちていました。


石室と一緒に滑り落ちた盗掘抗から13世紀から14世紀前半までに作られた土師皿が見つかり、地滑りの原因となった地震は14世紀以降とわかりました。


地滑りの後で堆積した地層には15世紀の遺物が残されていたので、1361年の南海地震による地変の可能性が高いです。



徳島県教育委員会が調査した徳島市の中島田遺跡では、13世紀後半から14世紀前半にかけての地層を引き裂き、15世紀前半の溝に削られる砂脈が見つかりました。


また、板野町黒谷川宮ノ前遺跡でも同じ年代の液状化跡が検出されています。


カヅマヤマ古墳の墳丘が滑り落ちた時に、四国東部では液状化現象によって噴砂が流れ出したのです。 



この南海地震に、対応する東海地震の記録は残っていません。


しかし、愛知県の門間沼遺跡を調査した結果、14世紀に入ってすぐに掘られた土壙を引き裂いて、その底に広がる噴砂を発見しました。


これは1361年の南海地震に対応する東海地震の痕跡であると考えられています。