南海トラフ地震警戒情報

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歴史は繰り返す!南海トラフ→京都大地震→相模トラフ(平安~室町時代の記録)


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歴史は繰り返す?「東海地震→南海地震」


学問好きで知られる藤原師通の書いた日記「後ニ条師通記」には、2つの地震が取り上げられています。



永長地震 - Wikipedia
まず、1096年12月17日の午前8時頃に大きな地震が6回あり、興福寺西金堂の本尊の両側の仏像が倒れ、駿河国の公文書には「仏神舎屋百姓四百余流出」と書かれています。


康和地震 - Wikipedia
次いで、1099年2月22日午前6時頃に大地震があり、興福寺の回廊と大門が倒れ、西金堂の柱が少し損傷して塔が破損しました。



1096年の地震については、右大臣藤原宗忠の日記「中右記」に詳しく書かれています。


辰時頃に地震があり2時間ほど地震が続いた。
家々が今にも倒れそうで、古今に比べるものがないほどだった。
大内裏を見回ると、大極殿の柱が一、ニ寸東に動いて瓦が落ちかかり、応天門の西楼が西に傾いていた。
また、後で聞いた話として、近江国勢多橋が破損して東西の岸の部分だけが残り、東大寺の鐘が地に落ち、薬師寺の回廊が倒れ、東寺の塔の九輪が落ち、法成寺の東西の塔の金物が落ちて損傷し、法勝寺の仏像が多く損なわれ、塔の多くが損傷している。
さらに、伊勢国の阿乃津の民家が地震の大津波で破損し 、諸国で同じようなことが起こった。



1096年の地震は、幾内が強く揺れて、駿河から伊勢の沿岸に津波が押し寄せたことなどから、南海トラフの東半分から発生した東海地震と考えられています。


一方、1099年の地震は、南海地震の特徴である高知平野の沈降が示されていることから、南海地震だと考えられています。


また、大阪府文化財センターが調査した東大阪市の瓜生堂遺跡でも、11世紀末から12世紀にかけての小規模な液状化跡が見つかっており、1099年の地震で生じた可能性があります。


このようにいつの時代の記録を調べても、先に東海地震が起きてから次いで南海地震が発生していることがわかります。


東海地震→南海地震、そして時には連動するという南海トラフの歴史は今後も繰り返されるのでしょう。



京都でM7以上?の大地震


1185年8月13日の正午頃、京都で大きな地震がありました。
文治地震 - Wikipedia


この地震について、「山槐記」には、法勝寺の九重塔が崩れ落ちて阿弥陀堂と金堂の東西の回廊・南大門・西門などが倒れ、法成寺の回廊がすべて倒れて東塔が北に傾いたなど、北白川近辺の被害について書かれています。


余震が3ヶ月近く続いたということもあり、この地震はM7クラスの規模であったことが推測されます。



琵琶湖西岸断層帯の南部に位置する堅田断層の調査で、11世紀中頃から13世紀中頃にかけての年代に活動した可能性が高いことがわかりました。


堅田断層に近接して断層の上盤側にある苗鹿遺跡の調査では、古墳時代前期の住居跡が廃絶して埋まった後に地割れで引き裂かれていました。


琵琶湖周辺で見つかった地震痕跡の中で、螢谷遺跡・穴太遺跡は平安時代後期から江戸時代という年代幅なので、1185年の地震で生じた可能性があります。


琵琶湖西岸断層帯を構成する活断層の北部は弥生時代中頃に活動したと考えられますが、断層帯南部の堅田断層などは1185年に活動した可能性が高いです。


鎌倉時代に記録された地震


1192年に鎌倉幕府が開かれてからは、鎌倉周辺で起きた地震が多く記録されています。


1241年、1257年の地震


1241年5月22日午後8時頃に起きた地震では、由比ヶ浜大鳥居内の拝殿が津波に流され、着岸していた十数隻の船が破損したと、歴史書「五妻鏡」に書かれています。


1257年10月9日午後8時頃、鎌倉周辺を激しい地震が襲いました。


(五妻鏡)
神社仏閣、一宇而無全、山岳頽崩、人屋顚倒、築地皆悉破損、所々地裂水涌出、中下馬橋辺地裂破、自其中火炎燃出、色青元々


(略)
神社仏閣や民家が倒壊して、山が崩れ、液状化現象で地面が引き裂かれて地下水が流れ出し、地割れから青白い炎がでた。



相模トラフから発生した「関東大地震」


鎌倉大地震 - Wikipedia
1293年5月27日の午前6時頃、鎌倉周辺が激しく揺れました。


当時、鎌倉に住んでいた親玄僧正が1292年からの3年間を記した「親玄僧正日記」には、


鎌倉の堂舎や民家がことご顚倒し、何千人死んだのかわからない。
建長寺が倒壊して炎上し、道隆禅師影道以外は残らず灰になった。
翌日、由比ヶ浜を歩くと、鳥居までの間に140人もの死体が転がっていた。


と書かれています。



頼朝挙兵から15世紀末までの歴史を綴った「武家年代記」の裏書きには、


山が崩れて人家が倒れ、関東で死者が2万3034人、大慈寺が倒壊して、建長寺が炎上した。とあります。


1333年頃に成立した「北条九代記」には、


山頽人家多顚倒、死者不知其数、大慈寺丈六堂以下埋没、寿福寺顚倒、巨福山顚倒、乃炎上、所々顚倒不遑称計、死者二万三千二十四人」


と書かれています。



被害の様子などから、この地震は相模トラフから発生したプレート境界の巨大地震の可能性が高いと考えられています。



鎌倉市の由比ヶ浜から由比ヶ浜通りにかけて広がる長谷小路遺跡群では、鎌倉市教育委員会と鎌倉市考古学研究所の調査で顕著な液状化現象の痕跡が見つかりました。


当時の地表面から少なくとも1.3メートル以上の深さに堆積していた砂層が液状化して、最大幅十数センチの砂脈が13世紀までに堆積した地層を引き裂き、14世紀前半に作られた方形竪穴建築址に削られていました。


13世紀から14世紀はじめまでに限定されるので、1257年か1293年の地震に対応する痕跡だと考えられます。


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