南海トラフ地震警戒情報

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東北沖巨大地震→関東大地震→南海トラフ...大災害の時代「平安時代前期・中期」

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841年に糸静線、北伊豆断層帯などが活動


続日本後紀には、841年に信濃国府を含めて長野県中部地域が激しく揺れたと書かれています。


糸魚川ー静岡構造線断層帯に属する松本盆地南東縁の牛伏寺断層などが、奈良~平安時代に活動して762年、または841年の地震を引き起こしたことが明らかになっています。


この断層は約1000年の間隔で活動を繰り返してあると考えられていますが、これ以降の活動はありません。



841年には、伊豆半島でも地震があったとの記録があり、トレンチ調査から、半島北部を南北に走る北伊豆断層帯の活動と考えられています。


この断層帯も約1000年の間隔で活動を繰り返していると評価されていますが、この後、1930年に活動して北伊豆地震を引き起こしました。


863年に富山・新潟で大地震


862年の冬から、近畿圏では疫病が流行しました。


そして863年7月10日に、大地震が富山・新潟両県を襲いました。


新潟県中部の海岸沿いに位置する長岡市の八幡林遺跡は、北陸道の要所に設けられた官衙として知られています。


ここでは、和島村教育委員会の調査によって最大幅15センチ、深さ1メートルで北東ー南西方向に延びる9世紀中頃の地割れの痕跡が発見されました。


これは863年の地震で生じた可能性が考えられます。


868年の播磨地震


日本三代実録によると、868年8月3日に大きな地震があり、郡の官舎や定額寺の堂塔が皆倒れたと書かれています。



当時の播磨国に相当する地域の中央には山崎断層帯が分布しています。


この断層帯は、岡山県美作市から兵庫県三木市にかけて、北西ー南東方向に真っ直ぐに延び、断層を横切る丘陵や河谷が左横ずれを示す方向に鋭く折れ曲がっています。


1979年に、山崎断層帯を構成する安富断層でトレンチ調査が実施され、この断層の活動によって868年の播磨地震が発生したことが明らかになりました。


その後、兵庫県と岡山県の活断層調査委員会が調査を行い、山崎断層帯が播磨地震を引き起こしたことを裏付けました。


さらに3000~3千数百年前頃にも活動したと考えられています。



一方、兵庫県教育委員会が調査した姫路市の南通り遺跡では平安~鎌倉時代、揖保郡太子町の亀田遺跡で古墳~平安時代の液状化跡が認められており、これらについても播磨地震によって生じたものだと考えられています。



869年に東北を襲った巨大地震


日本三代実録には、次のような記述があります。


869年7月13日の夜に陸奥国で大きな地震があり、倒れた人々は起きることができず、あるいは家が倒れて圧死し、地割れに埋まって死に、城郭倉庫・門櫓垣壁が無数に崩れ落ち、海水が怒濤となって多賀城の城下まで押し寄せ、溺死者が1000人余に及んだ。


これは宮城県沖で発生した巨大地震とそれに伴う津波被害の記録です。



仙台市や相馬市の海岸から数キロ内陸よりの地点で津波に運ばれた堆積物が確認されており、その後の地質調査では、仙台平野において海岸から2~3キロまで津波が遡上したことが明らかになりました。


878年に関東南部を襲った地震


東北地方が戦乱に明け暮れる中、878年11月1日に関東南部を地震が襲いました。


この地震について、日本三代実録には次のように書かれています。


地震があったのは夜で、関東諸国の地面が激しく揺れ裂け、相模、武蔵が特に甚だしかった。
その後五~六日は震動が止まらなかった。
公私の建物で無傷なものはなく、地面は陥没し、街道は不通になり、圧死した百姓は数知れない。
(中略)
相模国国分寺の金色薬師丈六像一体、挟侍菩薩像ニ体がすべて壊れて、後に焼け、さらに国分尼寺も堂舎が倒壊した。



この地震で被害を受けた地域には伊勢原断層が南北に走り、東側が上昇する活動を続けています。


5~7世紀頃の火山噴出物が断層の両側で約1.5メートル食い違っていることから、伊勢原断層の活動によると推測されています。


また、相模トラフのプレート境界から発生した巨大地震という考えもあります。


880年、中国地方で大地震


880年11月23日に中国地方の出雲が大地震に襲われました。


日本三代実録には、出雲国司からの報告として、今月14日に大きな地震があり、神社・仏寺・官舎、および、百姓の家の多くが倒れ、傾き、破損したと書かれています。


また、余震は8日後になっても止まらなかったと記録されています。



887年に発生した南海トラフ地震


887年8月26日、日本の各地が激しい揺れに襲われました。


このときの地震について、日本三代実録には次のように書かれています。


地面が大きく揺れて、数刻を経ても止まなかった。
(中略)
京にある諸司の建物や東西両京の廬舎があちこちで潰れ、圧死する者が多かった。
失神して急死する者もあった。
午後十時頃にまた三回地震があった。
五幾内七道諸国でも、この日の地震で、官舎の多くが損なわれ、海潮が陸に押し寄せて、数え切れないほどの人が溺死したが、摂津国の被害は最も甚だしかった。


西日本の広い範囲が揺れて、津波が押し寄せたことから南海トラフ地震だということがわかります。



また、愛知県埋蔵文化財センターが調査した稲沢市の地蔵越遺跡で、平安時代前期の遺物包含層の真上に流れ出した9世紀後半頃の噴砂跡が見つかり、東海地震も発生した可能性が考えられます。


976年、京都府で大地震


976年7月22日、京都の町が激しく揺れました。


『日本紀略』によると、雷のような響きとともに宮城諸司で多くの建物が壊れて倒れたが、左右の両京の建物はその数が甚だしく多かった。とあります。


さらに、翌日には14回も地震があったと書かれています。


この余震で倒れた民部省跡について、1973年に古代学協会が発掘調査を行い、東西に延びる築垣基壇跡を検出しました。


幅約3メートルの基壇は、固く締まった帯状の盛土で築かれていたが、南側に向かって大きく壊れ、大量の屋根瓦が幅2メートルの範囲に崩れ落ちて、そのまま埋もれていました。


崩れた瓦の年代がすべて平安時代中頃以前で、これを覆う地層には平安時代後期の瓦が含まれることから、976年の地震によって築垣が倒壊し、そのまま放置されたと考えられています。



『扶桑略記』には、22日の地震で近江国分寺の大門が倒れ、二王像もことごとく破損し、国府の庁舎や雑屋の30余棟が倒れ、関寺の大仏もことごとく破損したと書かれています。


大津市にある近江国庁跡の調査を行った滋賀県教育委員会は、5つの時期にわたる変遷を明らかにしました。


1期の8世紀中頃から後半に政庁の建物群が建設され、2期の8世紀末から9世紀はじめに大がかりな建て直しが行われ、3期の9世紀後半から10世紀後半にかけて新たに掘立柱建物や柵が作られました。


そして、4期の10世紀末頃にこれらの建物が廃絶し、大量の瓦・遺物・建材の破片が瓦礫として地面に敷かれ、敷地内の凹地が全面的に整地されました。


5期の12世紀になると、溝によって区切られた敷地に建物が建てられましたが、従来の建物に比べて規模は縮小しました。


4期で建物が廃絶して瓦礫で整地されたのは、976年の地震の被害を示しています。


この地震は、京都盆地と琵琶湖南岸が被害を受けたことから、京都盆地と琵琶湖の境界付近で大きな地震が発生した可能性が高いと考えられています。


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