南海トラフ地震警戒情報

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奈良時代に日本を襲った大地震!記録に残された甚大な被害の様子

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京都府「志高遺跡」、「青野西遺跡」


京都府舞鶴市の志高遺跡では、京都府埋蔵文化財調査研究センターの調査で約5千数百年前の砂脈が見つかりました。


さらに、最大幅20センチでさまざまな方向に延びる新しい年代の砂脈も検出され、弥生時代から奈良時代はじめにかけての地層をすべて引き裂き、奈良時代後半の地層に覆われていました。


綾部市の市街地の北にある青野西遺跡でも同センターが調査を行い、最大幅50センチで南北方向に延びる砂脈が見つかりました。


砂脈は古墳時代前期頃の竪穴住居とその埋土を引き裂き、平安時代の住居の柱穴は砂脈を貫いていました。


この遺跡の別の調査区では綾部市教育委員会が調査を行い、同じ年代の幅1.3メートルの砂脈が見つかりました。


これらの痕跡は約700年頃に京都府北部が激しい地震に襲われたことを示しています。


「続日本紀」に記録された大地震


715年には、「続日本紀」に2つの地震が記録されています。



まず、7月4日に遠江で地震があったと書かれています。


山が崩れて馬込川がせき止められたため、水が下流に流れず、数日後に決壊して敷智・長下・石田の三郡の民家170区余りが水没し、田の苗にも損害が出ました。


翌日には参河国に地震があり、正倉が47棟倒壊しました。


また、人民の廬舎もあちこちで陥没しました。



734年5月18日にも大きな地震があったと書かれています。


天下の人民の廬舎が壊れ、圧死した者が多かったとあります。


山は崩れ川はふさがり、ところどころに地割れが起こり、その数は数え切れないほどでした。


5日後には、使者を畿内七道諸国に派遣して、被害を受けた神社を調査させました。


さらに5日後、聖武天皇は、


今月7日の地震は普通ではなかった。
おそらくは山陵に被害を与えているかもしれない。
諸王や真人に、土師宿禰一人をそえて派遣し、天皇陵八ヶ所と、功のあった王の墓を検査させよと詔した。


と「続日本紀」書かれています。



四日市断層帯で起きた大地震


740年に都を離れた聖武天皇は、恭仁・難波・紫香楽と都を移り続け、5年後に平城京に戻ったが、この間にも大規模な地震が発生しました。


744年7月6日に肥後国に雷雨と大地震がありました。


この地震の被害について、


「八代、天草、葦北三郡の官舎と田二九〇余町、民家四七〇余区、人一五二〇余口が水中に漂い没した。」


と書かれています。



さらに、翌745年6月5日には、次のように記述されています。


この日地震があり、三昼夜続いた。
美濃国では、国衙の櫓・館・正倉、および、仏寺の堂や塔、人民の家屋が被害を受け、少しでも触れると倒壊した。



地質調査所の四日市断層帯に関するボーリング資料の解析では、745年に活動して大地震を引き起こした可能性が高いことを示しました。


また、愛知県埋蔵文化財センターによる稲沢市の地蔵越遺跡の調査でも、奈良時代の地層を引き裂いて平安時代前期の地層に覆われる砂脈が見つかり、745年の地震によるものだと考えられています。


818年に関東を襲った大地震


桓武天皇は794年に平安京に遷都しました。


818年には関東北部が大きな地震に襲われ、菅原道真が六国史をもとにして編纂した「類聚国史」には、


弘仁九年七月、相模、武蔵、下総、常陸、上野、下野等国、地震、山崩谷埋数里、圧死百姓不可勝計


と書かれています。



翌月には、使いを諸国に遣わして被害を把握し、損害の甚だしい者には米などの支給を行い、この年の税を免除し、正税で家屋の修理を補助し、犠牲者は速やかに埋葬するようにという嵯峨天皇の詔を出しました。


さらに翌月、天皇自らの不徳が地震の原因として、金光明寺で金剛般若波羅蜜経を転読して災害を除去するとともに、未納の租税を免除しました。



埼玉県北部の低地では、埼玉県埋蔵文化財調査事業団の調査で多くの液状化跡が見つかっていて、これらは818年の地震に対応するものだと考えられています。


また、群馬県でも、赤城山の南麓地域で山崩れによる堆積物・地割れ跡・泥流跡が多く見つかりました。


これらも8世紀中頃から10世紀前半までの年代に限定されることから、818年の地震によるものだと考えられています。



前橋市の低地でも、群馬県埋蔵文化財調査事業団が調査した笂井八日市遺跡・今井白山遺跡などで液状化現象の痕跡が検出されました。


笂井八日市遺跡では当時の地面から1.1メートルの深さから上昇した噴砂が地面を覆っていました。


噴砂が引き裂いた地層には6世紀に噴出した榛名山二ツ岳の火山灰や軽石が含まれ、噴砂を覆う地層には1108年に噴火した浅間火山の噴出物が含まれていました。


今井白山遺跡では、地面の傾斜に直交する方向の地割れに沿って噴砂が上昇していました。


地割れに引き裂かれた竪穴住居跡は5世紀、地震痕跡の上に造られた竪穴住居跡9世紀後半のものでした。


2002年に調査された佐波郡東村の下田遺跡でも、幅40センチ前後の地割れが多く見つかり、榛名山二ツ岳の噴出物を含む地層を引き裂き12世紀の地層に覆われていました。


いずれも818年の地震を含む年代で、この地震の痕跡である可能性が高いと考えられます。


818年の地震はプレート内部で発生した地震だった可能性が高い


埼玉県西部の丘陵と平野の境界に沿って、深谷断層・櫛挽断層なとで構成される「関東平野北西縁断層帯」が北西ー南東方向に走っています。


検出された地震痕跡に最も近い断層帯ですが、産総研の調査では最新の活動時期が3500年前頃となり、この地震を引き起こしたとは考えにくいです。


被害が広範囲に及ぶことから、むしろ、地下深部まで潜り込んだプレート内部から発生した大型地震と考えられています。


830年に東北地方を襲った大地震


東北地方の出羽国から京都に駆けつけた使者が、830年2月3日の大地震で秋田城が被害を受けたことを伝えました。


(類聚国史)
雷のような大音響の中で、城郭や官舎、四天王寺の丈六仏像や四王堂舎がことごとく倒壊し、城内の家屋も倒れて15人の百姓が圧死し、体が折れ損なう者は100余人にものぼった。
地割れが多く、長さ30丈から20丈に及んだ。
秋田河の底も引き裂かれたらしく、水は涸れて細い溝のようになった。
添河と覇別河の岸が崩れて、せき止められた水はあふれ出した。



出羽国では、前年の暮れから疫病が猛威をふるっていました。


家族全員が病に倒れて看病する者もなく次々に命を落とすという惨状に、地震が追い打ちをかけたのです。


この地震によって庶民の生活は困窮の度を深め、疫病にも悩まされる日々が続きましたが、850年には、その少し南の地域を激しい地震が襲いました。


「日本三代実録」には、大きな地震があり、地形が変わり、海水が国府から六里の位置に迫ったとあります。


また、「日本文徳天皇実録」にも、出羽国からの報告で、地面が揺れて引き裂かれ、山が崩れ、圧死者が多く、国府の城柵が傾いたことが書かれています。


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