南海トラフ地震警戒情報

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古墳時代の地震痕跡!大阪平野・四国・東海地域で大規模な地震が発生していた?

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大阪府堺市「下田遺跡」

大阪府埋蔵文化財協会が調査した堺市の下田遺跡では、川に堆積した砂層から鮮やかな赤銅色の銅鐸が発見されました。


地下水の豊富な砂層の中で外気と遮断されていたため腐食を免れ、銅鐸の本来の色が保たれていたのです。


そして、この遺跡からは、幅2~5センチの砂脈が多く見つかり、弥生時代の地層を引き裂き、古墳時代の地層に覆われていました。


大阪府八尾市「志紀遺跡」


大阪府教育委員会による八尾市の志紀遺跡の調査では、弥生時代中期に112本の杭が水田に打ち込まれたことが判明しています。


その後、当時の地面から約60センチの深さを境にして、上側の地盤が南に向かって一気に流れ動きました。


杭も真ん中で切断されて、一斉に10センチ前後食い違っていました。


弥生時代から古墳時代に移行する時期の大規模な地震で滑り動いたと考えられています。



下田遺跡、志紀遺跡の地震痕跡と、黒谷川宮ノ前遺跡の二番目の地震痕跡の年代は庄内式併行期となり、この頃に大阪平野や四国が激しく揺れたということがわかります。


奈良県天理市「赤土山古墳」


奈良盆地東縁の天理市内で東西方向の細長い丘陵にある赤土山古墳は、古墳時代前期末から中期初頭に築造されました。


後円部が角張っていたため、この地域では珍しい前方後方墳と考えられていました。


天理市教育委員会による2001年度の調査で、墳丘の下部から大型の朝顔型埴輪や円筒埴輪で構成される埴輪列が発見されました。


しかし、当時はなぜ、墳丘上にあるはずの埴輪が低い位置で見つかったのかがわかりませんでした。



翌年の調査で、墳丘の側面を深く掘り下げて、盛土が大きく滑り落ちた痕跡を発見しました。


この結果、後円部が様々な方向に滑って四角くなり、墳丘の頂部に設置された埴輪群が滑り落ちて、そのまま埋まったということがわかりました。


埴輪が新鮮な状態で滑り落ちて埋まったことから、最初の地滑りは築造直後の西暦400年前後と考えられています。


その後も何度か地滑りが発生して墳丘の変形が拡大したと考えられます。



大阪府八尾市「久宝寺遺跡」


八尾市久宝寺遺跡では、柔らかい粘土層が滑り動いた痕跡も見つかり、古墳時代前期末から中期初頭の大地震によることがわかりました。


静岡県「坂尻遺跡」


浜名湖から約30キロ東に位置する静岡県の坂尻遺跡では、袋井市教育委員会の調査により、


古墳時代前期末から中期初頭の地震による幅数センチの砂脈が多く見つかりました。



このように、西暦400年前後に、奈良盆地・大阪平野とともに東海地域にも激しい揺れが襲ったことがわかっています。


神戸市「新方遺跡」、「郡家遺跡」


神戸市の西端を流れる明石川、その東岸の低地に広がる新方遺跡では神戸市教育委員会の調査で弥生時代前期前半の人骨が見つかり、胸には戦闘行為による石鏃が打ち込まれていました。


この遺跡では、16世紀末の地震による砂脈が多く見つかりましたが、6世紀前半頃の小さな砂脈もありました。



大手前女子大学が発掘した神戸市東灘区の郡家遺跡では、古墳時代中期の畑の畝が発見されました。


畑の隅では、当時の土師器の高坏や壺、須恵器の有蓋高坏などを使って祭祀行為が行われていました。


さらに、地下に堆積した砂層が液状化して地盤が滑り動き、畝に最大20センチの食い違いが多く生じていました。


これらは六世紀中頃の堆積物に覆われているので、五世紀末から六世紀中頃までの地震痕跡であると考えられます。


大阪府高槻市「新池遺跡」


高槻市教育委員会による新池遺跡の調査では、五世紀中頃から六世紀中頃にかけて多数の埴輪を生産した埴輪窯群が発見されました。


大阪平野北部の開発が進み、太田茶臼山古墳や今城塚古墳などの大型前方後円墳が築造され、その埴輪が生産されたのです。


そして、大阪層群と呼ばれる固い砂礫層に設置された埴輪窯のうちの二基が、五世紀末から六世紀中頃に生じた地滑りで滑り落ちていました。



このように、五世紀末から六世紀中頃にかけての小規模な地震痕跡が、大阪平野北部の複数の遺跡で認められているのです。



群馬県「三ツ寺遺跡」


群馬県西部の榛名山から南東約十数キロの位置にある三ツ寺Ⅰ遺跡では、群馬県埋蔵文化財調査事業団の調査によって、古墳時代中期の豪族の屋敷跡が姿を現しました。


程渡田・三ツ寺Ⅱ・Ⅲの各遺跡からは庶民の住居跡と水田跡が検出され、豪族に支配された人々の暮らしもわかってきました。


榛名山は古墳時代に三回噴火しており、六世紀の二回目と三回目の噴火では、流れ出した火砕流や軽石が周辺の集落を埋め尽くしました。


渋川市教育委員会による1982年の黒井峰遺跡の調査では、火山噴出物の下から当時の村の様子が再現され「日本ポンペイ」と呼ばれるようになりました。



三ツ寺Ⅱ遺跡を調査した群馬県埋蔵文化財調査事業団は、竪穴式住居跡の床面を引き裂く多くの地割れの年代を区分して、


六世紀前半~中頃、
六世紀後半~七世紀前半、
七世紀後半~11世紀
の三回、地震が発生したことを明らかにしました。


また、最初と二回目は榛名山の噴火に伴う地震だと考えられます。


東北沖巨大地震→関東大地震→南海トラフ...大災害の時代「平安時代前期・中期」 - 南海トラフ地震警戒情報