南海トラフ地震警戒情報

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各地で見つかった縄文時代晩期から弥生時代の地震の痕跡

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縄文時代晩期に活動した断層帯


1995年の野島断層の活動によって兵庫県南部地震が発生し、阪神・淡路大震災を引き起こしました。


この地震で活断層が注目を集め、全国に分布する98の主要活断層帯の総合調査が始まりました。



活断層は長い静寂と一瞬の活動を繰り返しています。


それぞれの断層について、一つ前、さらにもう一つ前の活動時期がわかれば、発生の間隔がわかり、将来の活動をある程度予測できると考えられています。


活動の履歴を知るため、活断層の推定位置を細長く掘り下げて、さまざまな年代の地層の食い違いを観察する方法を「トレンチ調査」といいます。



有馬ー高槻断層帯


耳原遺跡では、このトレンチ調査により明瞭な活断層が姿を現し、調査の結果、この断層が縄文時代から弥生時代に移り変わる年代に活動したことがわかりました。


地層の境界付近での放射性炭素年代測定値も2800~3000年前頃になり、考古学的な見解と矛盾しません。


この頃にも、安威断層を含む「有馬ー高槻断層帯」が活動したのが明らかになったのです。



また、大阪平野東部にある八尾市の久宝寺遺跡では、大阪府文化財センターの調査で、最大幅42センチで南北方向に10メートル以上の長さで延びる多くの砂脈が見つかりました。


当時の地面から数十センチの深さに堆積した砂礫が液状化して、砂とともに最大径8センチの礫が流れ出した痕跡で、縄文時代晩期から弥生時代初頭にかけての年代となります。



東大阪市の池島遺跡の調査で、大阪府文化財センターは、縄文時代晩期末の生活面にいくつか分布して、これまで成因が不明だったくぼみを地震の痕跡と考えました。


長径約1.5メートル、短径約50センチ、深さ約30センチの楕円形のくぼみは、当時の人たちが掘り下げたとは考え難く、隣には同じ規模の高まりがありました。


くぼみを横切る方向に掘削して断面を観察すると、すぐ下に堆積していた砂層で液状化現象が発生していました。


つまり、砂層の一部が斜め上方向に流れ動き、砂の失われた場所で地面が下がり、砂が集まった場所で地面が盛り上がったということが明らかになったのです。



大阪府松原市教育委員会による東新町遺跡の調査でも、当時の地面から深さ約1メートルにある砂礫層が液状化して、幅90センチの砂脈内を墳砂が上昇していました。


これらは、久宝寺遺跡・池島遺跡と同様に、縄文時代晩期から弥生時代に移行する時期の地震痕跡となり、有馬ー高槻断層帯の活動によって大阪平野を激しい揺れが襲ったことを示しています。



鈴鹿東縁断層帯


濃尾平野には、伊勢湾の西側で南北に連なる鈴鹿山脈の東縁には、鈴鹿東縁断層帯が発達しています。


三重県地域活断層調査委員会による調査の結果、今から約3000年前に活動したことがわかりました。


三重県埋蔵文化財センターが調査した津市の蔵田遺跡でも、縄文時代晩期から弥生時代初頭に生じた液状化現象の痕跡が見つかり、この断層の活動による可能性が高いと考えられています。



長町ー利府線断層帯


一方、東北地方の中心である仙台では、市街地を北東ー南西方向に横切って、長町ー利府線断層帯が発達しています。


仙台市教育委員会が、断層から南東約2キロにある北目城跡の調査を行い、当時の地表面から深さ数十センチに堆積していた砂層から上昇した、最大幅22センチの砂脈を見つけました。


これは縄文時代晩期頃の長町ー利府線断層帯の活動に伴う可能性が考えられます。



弥生時代前半の地震


弥生時代は前、中、後期に区分されていますが、縄文時代晩期の終わりを弥生時代早期とすることもあります。


また、これまで2300年前頃と考えられていた弥生時代の始まりが、3000年前近くまで遡る可能性が高くなりました。


早期が先Ⅰ期、前期がⅠ期、中期がⅡ~Ⅵ期と三区分され、後期はV期となります。



大阪平野の地震跡


大阪府文化財調査研究センターによる八尾市の久宝寺遺跡・田井中遺跡・志紀遺跡、東大阪市の池島遺跡などで、前期の終わり頃の液状化現象の痕跡が見つかり、大阪平野が大規模な地震に見舞われたことがわかりました。


志紀遺跡では、人工的に掘削した幅数メートルの溝が北西ー南東方向に並んでいて、多くが地滑りの被害を受けていました。


当時の地面から深さ1メートルまでが粘土で、溝の底は下にある砂層まで達していました。


そして、この砂層が液状化して流れ動いたため、溝の側面から粘土が滑り落ちたのです。


地震の後、破損の著しい溝はそのまま埋めて廃棄し、他の溝は修復して再利用していました。



琵琶湖周辺で複数の地震跡


静岡県掛川市の原川遺跡では、静岡県教育委員会の調査で弥生時代Ⅱ期末の地面を引き裂く砂脈が見つかり、Ⅱ期末に大規模な地震が発生したことがわかりました。


日本最大の湖である琵琶湖の周辺には多くの活断層が分布しています。


京都盆地の北東部から比良山地の西側を通って北北東に延びる花折断層は、主に右横ずれ活動を繰り返しています。



花折断層の東側に平行して、琵琶湖の西側を南北に延びる琵琶湖西岸断層帯は、北から酒波断層・饗庭野断層・拝戸断層・比良断層・比叡断層・膳所断層で構成され、断層の西側が上昇して東側が下降する活動を繰り返しています。


琵琶湖は断層活動のたびに沈降して湖水が蓄えられています。


そして、湖に流れ込む河川が砂や泥を運んで埋め立てても、沈降量がはるかに上回るので巨大な湖として存在し続けています。


琵琶湖の形成に深く関わるのが、上下方向の変位を行う琵琶湖西岸断層帯です。



琵琶湖北西岸の滋賀県高島市新旭町に位置する針江浜遺跡では、滋賀県文化財保護協会が湖岸から250メートル沖で調査を行い、現在の湖底より深さ約1メートルの位置に、過去の陸地が存在することを明らかにしました。


この地面には、弥生時代Ⅱ期の土器や農耕用の木製品と水田に伴う溝が残されていました。


そして、本来なら湖岸に生育しているはずの柳の木々が立ったまま枯れ、一部は横倒しになっていました。


さらに、当時の地面から数十センチの深さに堆積した砂礫層で液状化現象が発生して、流れ出した噴砂が当時の地面を覆っていました。


Ⅱ期からⅢ期はじめにかけて生じた大規模な地震によって、当時の湖岸が水没したと考えられるのです。



湖の北東岸にある正言寺遺跡でも、長浜市教育委員会の調査で幅約30センチの砂脈が見つかりました。


砂脈を上昇した噴砂に弥生時代Ⅱ期の土器片が混じり、砂脈を覆う地層にⅥ期の土器片が多く含まれていたことから、Ⅲ期を含めてその前後の年代の地震跡と考えられます。



湖の南岸にある草津市の津田江湖底遺跡でも、滋賀県文化財保護協会が調査を行い、最大幅約1.1メートルの砂脈を発見しました。


砂脈は弥生時代Ⅰ期の地層を引き裂き、Ⅵ期の地層に覆われていました。


約10キロ北東にある野洲市の湯ノ部遺跡でもⅠ期の生活面を引き裂いた砂脈の上端が、Ⅴ期の住居跡に削られていました。



野洲市教育委員会が調査した八夫遺跡では、礫を多く含む砂礫層で液状化現象が発生していました。


砂脈の幅は1メートル前後で、最大径10センチの礫を含む砂が流れ出していました。


Ⅱ~Ⅵ期に生じた痕跡ですが、大きな礫を多く含む地層は液状化し難いので、かなりの激しい揺れに見舞われたことがわかります。



琵琶湖周辺の遺跡から、弥生時代Ⅱ期からⅢ期初頭を含む年代の地震痕跡が見つかり、この頃に琵琶湖全体を強い地震が襲ったことがわかりました。


湖岸の水没を伴うことから、琵琶湖西岸断層帯の活動に伴う可能性が高いと考えられています。



京都で見つかった地震跡


京都盆地北東部でも弥生時代頃の地震痕跡が見つかっています。


北白川上終町では、1966年に花折断層の位置で道路工事が行われ、縄文時代晩期頃の地震が切断され、これを古墳時代後期から平安時代初期までの地層が覆うことがわかりました。


200メートル南の北白川廃寺跡では、京都市埋蔵文化財研究所が調査を行い、北西ー南東方向に延びる幅1.8メートルの砂脈を見つけました。


砂脈は縄文時代晩期の遺物を含む地層を引き裂いていますが、七世紀後半から八世紀初頭には砂脈の上に北白川廃寺が造営されました。



京都大学埋蔵文化財研究センターによる京都大学北部構内遺跡の調査でも、東西と西北西ー東南東に延びる砂脈が多く見つかり、弥生時代Ⅰ期と縄文時代晩期の遺物を含む地層と、これを覆う弥生時代Ⅰ期~Ⅱ期の洪水砂を引き裂いていました。


地質調査所による、琵琶湖西岸断層帯を構成する饗庭野断層の調査では、2800年前より後で2400年前頃までに活動した可能性が高いと考えられています。


一方、花折断層の南部にあたる京都盆地北東部での調査では、最新の活動が2500年前から1500年前までの間に絞り込まれています。


弥生時代前半の絶対年代はまだ確定していませんが、Ⅱ期は2200年前から2400年前までの範囲だとすると、これらの断層活動が琵琶湖周辺の地震痕跡に対応する可能性があると考えられるのです。



弥生時代後半の地震


香川県で見つかった地震痕跡


四国の香川県高松市教育委員会による松林遺跡の調査では、当時の地面から深さ1メートルに堆積していた砂礫層が液状化して、最大径12センチの礫が粘土層を引き裂いて地面に流れ出した痕跡が見つかりました。


弥生時代Ⅲ期の地震痕跡ですが、地面に流れ出した礫の高まりには、当時使われていた壷と甕が一個ずつ伏せてありました。


これは、地震に遭遇した人たちが、さまざまな思いを込めて置いたと考えられています。



淡路島で見つかった地震痕跡


淡路島南東部で洲本市教育委員会が調査した下内膳遺跡では、弥生時代Ⅲ期の方形周溝墓の墳丘と周囲に掘られた溝に堆積した埋土が、多くの砂脈に引き裂かれていました。


これらの先端はⅥ期はじめの水田耕作土に削られていることから、Ⅲ期からⅥ期にかけての年代の地震痕跡とわかります。


この遺跡では、Ⅴ期中頃の砂脈も少し見つかっています。



瓜生堂遺跡の地震痕跡


東大阪市教育委員会が調査した瓜生堂遺跡では、液状化した砂層が流れ動いて、上を覆う粘土層に多くの地滑りが生じていました。


この粘土層には弥生時代Ⅲ期後半の遺物が、そして、地滑りを覆って水平に堆積した地層にはⅥ期の遺物が多く含まれるので、下内膳遺跡と同じくⅢ期末からⅥ期前半にかけての地震痕跡となります。


地震痕跡のすぐ近くで、周辺地域や和歌山県北部の紀ノ川流域から持ち寄った綺麗な石を並べた祭祀行為の痕跡が見られました。



また、兵庫県南部地震から半年余り後、地質調査所などが、地震を引き起こした野島断層の調査を行い、一つ前の断層活動が紀元一世紀頃だということがわかりました。


神戸市教育委員会が調査した兵庫区上沢遺跡では、幅数センチの砂脈が、弥生時代Ⅰ期の地層を引き裂いてⅤ期の地層に覆われていたのです。



福井県で見つかった人為的に設置された石


福井県教育庁埋蔵文化財調査センターが調べた九頭竜川南岸で福井市の林・藤島遺跡群泉田地区では、


地面を引き裂く噴砂とともに数センチ前後の礫が地面に流れ出しており、


当時の人たちが砂脈の末端に穴を掘って、長さ35センチの大きな石を設置していたことがわかりました。


これは、砂や礫が流れ出したことに驚いて祭祀行為を行ったのだと考えられます。



神奈川県周辺の地震痕跡


相模湾北岸地域では、弥生時代中期から古墳時代前期までの地震痕跡が多いです。


神奈川県藤沢市の二伝寺砦遺跡では弥生時代Ⅴ期の19軒の住居址の床面が食い違い、そのうちの二軒は地震後に床面を修復して住み続けていました。


また、かながわ考古学財団が調査した茅ヶ崎市の臼久保遺跡では、丘陵上に位置した集落の環濠と住居址三棟の床面が弥生時代Ⅴ期の地滑りで食い違っていました。



徳島県で見つかった地震痕跡


徳島県を流れる吉野川下流の低地にある板野郡板野町の黒谷川宮ノ前遺跡では、徳島県埋蔵文化財センターが調査を行い、


弥生時代Ⅴ期中頃とⅤ期末に耕されていた上下二層の水田耕作土を検出しました。


ここでは、4回の地震に対応する砂脈が検出されましたが、最古の砂脈は下部の水田耕作土に削られており、弥生時代Ⅴ期中頃の地震によるものであると考えられます。


2回目の地震による砂脈は両方の耕作土を引き裂き、新しい水田面上に噴砂が流れ出していました。


そして、この水田は地震とともに廃絶しました。


3回目の地震は古墳時代、4回目の地震は14世紀であると考えられます。



この遺跡の東に隣接する黒谷川郡頭遺跡では、徳島県教育委員会が調査を行い、弥生時代Ⅴ期の円形住宅跡を検出しました。


住居の床面は焼土に覆われ、焼土を取り除くと、噴砂が広がっていました。


詳しい検討の結果、地震とともに床面に噴砂が流れだし、その上に倒れた住居を燃やしたことがわかりました。


地震の年代はⅤ期中頃となり、黒谷川宮ノ前遺跡の最も古い砂脈や、洲本市の下内膳遺跡の新しい年代の砂脈と同じです。